日本との接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:04 UTC 版)
「スバス・チャンドラ・ボース」の記事における「日本との接近」の解説
ムッソリーニやヒトラーとの連携に失敗したボースは、かつては「日英同盟」を結ぶなどイギリスと良好な関係にあったが、この頃は同じく枢軸国の1国としてイギリスとの対立姿勢を鮮明にしていた大日本帝国に目を向けた。 1941年12月に行われた日本軍によるイギリス領マラヤへの攻撃「マレー作戦」をきっかけに、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどと交戦状態に入った(大東亜戦争/太平洋戦争)。ボースは「マレー作戦」や香港攻略戦での日本軍の勝利とイギリス軍の敗北を知ると、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」として、日本行きを希望して駐独日本大使館と接触するようになった。 しかし日本大使館は「考慮中」という対応しか示さなかった。日本の外務省や日本陸軍参謀本部はインド情勢に対する分析が不充分であり、ボースの価値についてほとんど認識していなかった。 マレー作戦の後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、インド洋のイギリス海軍を大きく後退させた。おりしも北アフリカ戦線で枢軸軍がスエズ運河に迫っており、ドイツ側も日本に対して対インド方面作戦の強化を働きかけていた。
※この「日本との接近」の解説は、「スバス・チャンドラ・ボース」の解説の一部です。
「日本との接近」を含む「スバス・チャンドラ・ボース」の記事については、「スバス・チャンドラ・ボース」の概要を参照ください。
- 日本との接近のページへのリンク