各地の征服と王国の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 06:15 UTC 版)
「ハイダル・アリー」の記事における「各地の征服と王国の発展」の解説
さらに、ハイダル・アリーはマイソール王国の領土の拡大を目指し、マイソール王国の周辺諸国に軍事遠征を行った。すでに、18世紀後半までに王国は内陸交通網が発達し、国内外の都市や町との間で多くの物資が流通していたが、彼はアラビア海に面する領土の重要性を理解していた。 1763年3月 、ハイダル・アリーはケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼしたが、この領土の征服は重要なものだった。この王朝の領土であったカナラ地方は胡椒やキンマなどの商品作物の栽培と輸出でにぎわい、その首都ビダヌールはアラビア海に面した海港と陸上交易路で結ばれた商業上重要都市でもあった。内陸国家として発展してきたマイソール王国にとっては、海側に面した領土を手に入れることで他国との貿易や使節の派遣を可能にした。 ハイダル・アリーはビダヌールをハイダルナガル(ハイダルナガラ、現ナガラ)と改称し、王国の首都シュリーランガパトナとは別の自身の拠点として重視した。 1764年、彼は王国の県知事らを招集したが、その集合地はハイダルナガルであった。同地には貨幣鋳造所が設けられ、ハイダル・アリーの名を冠したハイダリー・パゴダという金貨が鋳造された。 18世紀後半までに王国内の綿布産業をはじめとする産業は一定の発達を見せていたが、ハイダル・アリーはこれら産業をさらに活性化させようとし、養蚕や絹織産業の育成、軍事面の両方で力を入れた。シュリーランガパッタナやバンガロールなどの拠点にはそれら官営の作業場を増設し、軍が使用する銃や大砲の一部の製造を官営作業場で製造した。 また、ハイダル・アリーはケーララ地方にも侵略し、1766年にはザモリンのカリカットを落とし、1767年初頭にはトラヴァンコール王国に侵入し、急速に南インドに領土を拡大した(マイソール王国のケーララ侵攻)。 ハイダル・アリーは軍事的に従わせた小規模なナーヤカに対しては、貢納と軍事力提供によって存続を認めることもあった。とはいえ、ナーヤカが軍役などで死亡した際には、その支配領域は順次王国の行政企画に組み込まれた。 このように、マイソール王国は南インドにおいて最も強勢を誇ったが、当時第三次カーナティック戦争終結後に南インドにおいて優位だったイギリスとの対立を不可避にした。一方、ハイダル・アリーもまたフランスとの同盟を利用し、軍事顧問を受けいれてイギリスに対抗しうる援助を得て、軍事的な近代化を目指した。 また、デカンのマラーター王国やニザーム王国なども、マイソール王国の南インドにおける進出を脅威とみるようになった。
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