各地の戦争行動とは? わかりやすく解説

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各地の戦争行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 03:05 UTC 版)

第一次英蘭戦争」の記事における「各地の戦争行動」の解説

戦争防止する最後必死試みとして、オランダ連邦は彼らの最高の当局者である「大議長英語版)」のアドリアン・ポー(英語版)をロンドン派遣させたが、それは無駄に終わったイングランド要求はいっそう過激さを増し、みずから自尊感情あらわさずには会見することができないくらい極端になっていた。戦争1652年7月10日イングランド議会によって宣言された。オランダ外交官は、何が死活問題になっているかを理解した随行した大使1人言っている:「イングランド人たちは、金の山を攻撃している。われわれが攻撃しようとしているのは、の山だ」と。ところが、オランダオラニエ派はこの事態歓迎していた。彼らは、勝利によらず敗北によらず戦争が自らの勢力拡大につながるだろうと踏んでいたのである戦争最初の数か月は、オランダ護送船団対すイングランド攻撃がみられた。ブレイクは、オランダ船の北海航行バルト海方面での貿易中断させるために60隻の船で派遣され、アイスキューとその小戦力とはイギリス海峡を守るため、同海域残された。1652年7月12日、アイスキューはポルトガルから廻航してきたオランダ護送船を略取し、7隻の商船拿捕して3隻を破壊したオラニエ派の将帥としても知られるオランダトロンプはアイスキューを攻撃するために96隻の船隊集めたが、南風のため北海海域留め置かれ、そこを動くことができなかった。トロンプ提督ブレイク追跡のため北へ転回し、シェトランド諸島沖でイングランド艦隊追いいたものの、そこでは嵐が吹き荒れて彼の船が難破し戦闘には至らなかった。1652年8月26日、アイスキューはヴァイス・コマンダー(Vice-commandeur)に任じられミヒール・デ・ロイテル指揮されオランダ護送隊が外海向かおうとするのを攻撃したが、プリマス海戦英語版)で名将ロイテル打ち負かされ攻撃命令取り消された。デ・ロイテルは、地中海以東へ向かう商船隊援護しイギリス海峡突っ切ることに成功したトロンプシェトランドでの失敗ののち停職となり、ウィット・コルネリスゾーン・デ・ワイズ(英語版中将指揮権託された。オランダ護送隊はイングランド攻撃から安全な状態を保っており、デ・ワイズは今こそ軍を集中させ、制海権を握る好機であるとみた。1652年10月8日のケンティッシュ・ノックの海戦英語版)において、オランダテムズ川河口付近イングランド艦を攻撃したが、反撃受けて多数死傷者出したイングランド議会は、オランダ軍敗色濃厚とみて地中海海域での地位強化するため、20隻の船を送ったオランダ側が艦隊補強向けてあらゆる努力払っているあいだ、イングランドでは戦力分割され、わずか42人の戦闘員11月までにブレイク預けられたのであった12月のダンジェネス岬の海戦英語版)ではウィット・デ・ワイズから再び交代したトロンプ提督イングランド打ち破っただけでなく、イングランド地中海艦隊救援に向かうこともできなくなっていたために、1653年3月イタリア沖でのリヴォルノ海戦英語版)での壊滅つながったブレークテムズ川河口退却しオランダ港湾イングランド船を遮断することができ、イギリス海峡北海および地中海制海権有した。この結果受けてクロムウェル秘密裏オランダ人たちと平和交渉するため、議会説得させた。1653年2月、アドリアン・ポーが好意的な反応示しオランダ連邦政府からは、平和合意に到達したい旨の真摯な願望つづった書簡送られた。 いくつかの成功があったにもかかわらずオランダ連邦は長引く海戦継続することができなかった。兵員強制徴募禁じられていたため、水夫十分に引き付ける足りるだけの給与支払い巨額な出費となっていたからである。イングランド私掠船オランダ船に深刻なダメージあたえたオランダはその全植民地を守ることができず、オランダ領ブラジルポルトガルによって再征服されるの黙認せざるをえなかった。 政治家たちは両国対立終わらせるべく行動し戦争終結目前せまっていたが、戦争にはそれとはまた別の、独自の勢いがあった。1652年から翌年にかけての冬、イングランド人たちは自分たちの船を修理しながら、戦闘中の船の位置づけについて考察したロバート・ブレイク航行戦闘指示書著している。これは、従来海戦戦術徹底的に見直したものであり、単縦陣についての説明としては公式には世界初となるものを含んでいた。1653年2月までにはイングランド人たちは挑戦準備整っており、3月には3日間にわたるポートランド海戦英語版)でオランダ勢力海峡から完全に追い払い致命的打撃あたえた。この戦勝イングランドにおける平和へ希求の突然の終わり意味した3月18日スターテン・ヘネラールイングランド議会詳細な和平提案送ったが、その答え4月11日になってからようやく送られ、しかも前年6月にアドリアン・ポーに待ちぼうけ食わせたのと同じ要求繰り返しただけのものであったイングランド側からすれば、交渉以前オランダ和平案を受け入れることは交渉の開始意味していた。オランダ議会スターテン・ヘネラール)はイングランドからの返答無視し4月30日中立国交渉開始するよう求めた5月23日クロムウェル戦前開会されランプ議会解散し6月5日スターテン・ヘネラールによってロンドン派遣決まったオランダ使節迎えようとした。 その間イングランド海軍北海制海権を握るため、6月のガッバードの海戦英語版) における3日間の戦闘オランダ背後をたたき、オランダ船を母港退去させたうえで海上封鎖開始した南部ネーデルランドベルギー)のニーウポールト沖で戦われたこの戦闘史上まれにみる激戦であった。そして、イングランド艦隊による海上封鎖は、ただちにオランダ経済崩壊ないし飢餓という事態さえ招きかねないものであったオランダ人たちは、バルト海中東欧方面からの小麦ライ麦定期的な供給滞ったことで都市密集する住民を養うことができなくなり農産物価格急騰したため、貧し人びと食糧をすぐに購入することができなくなってしまった。 この戦争最後の戦い8月スヘフェニンゲン海戦英語版)(テル・ヘイデの海戦であったが、これは双方にとって代償大きな戦闘となったオランダ人たちはイングランドによる海上封鎖解こう必死になって戦い互いに大きな犠牲をともなう激し戦いの結果敗れたオランダ人テセル島退却した。しかし、イングランド側もまた、封鎖断念しなければならなくなった名将として人望厚かったマールテン・トロンプ提督はこの海戦初期戦死したが、これはオランダ側の士気にとって大きな打撃となり、人びと厭戦気分浸透させた。そして、似たような感情イングランド側でも巻き起こったのである戦争によって多く人びと豊かになった(戦争中オランダ得た利益は1,200隻の商船ないし商人艦隊全体の8%であり、イングランドにおける無傷外洋航行可能商船全体の倍に相当する)ものの、取引全体としておおいに損なわれた。クロムウエルは、2つプロテスタント国家自身始めたこの無用な戦いによってともに消耗しきっていることに自ら憤慨していた。その間カトリックの国スペイン利益得ていただけなおさらであった。彼は、6月下旬ロンドン派遣された4人のオランダ人使節と真剣に交渉始めることを決定した和平交渉1653年9月からロンドン始まった双方敵意は、和平締結ころまでにはほとんど無くなっていた。

※この「各地の戦争行動」の解説は、「第一次英蘭戦争」の解説の一部です。
「各地の戦争行動」を含む「第一次英蘭戦争」の記事については、「第一次英蘭戦争」の概要を参照ください。

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