各地の戦争行動
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戦争を防止する最後の必死の試みとして、オランダ連邦は彼らの最高の当局者である「大議長(英語版)」のアドリアン・ポー(英語版)をロンドンに派遣させたが、それは無駄に終わった。イングランドの要求はいっそう過激さを増し、みずから自尊感情をあらわさずには会見することができないくらい極端になっていた。戦争は1652年7月10日、イングランド議会によって宣言された。オランダの外交官は、何が死活問題になっているかを理解した。随行した大使の1人は言っている:「イングランド人たちは、金の山を攻撃している。われわれが攻撃しようとしているのは、鉄の山だ」と。ところが、オランダのオラニエ派はこの事態を歓迎していた。彼らは、勝利によらず敗北によらず、戦争が自らの勢力拡大につながるだろうと踏んでいたのである。 戦争の最初の数か月は、オランダ護送船団に対するイングランドの攻撃がみられた。ブレイクは、オランダ船の北海航行とバルト海方面での貿易を中断させるために60隻の船で派遣され、アイスキューとその小戦力とはイギリス海峡を守るため、同海域に残された。1652年7月12日、アイスキューはポルトガルから廻航してきたオランダ護送船を略取し、7隻の商船を拿捕して3隻を破壊した。オラニエ派の将帥としても知られるオランダのトロンプはアイスキューを攻撃するために96隻の船隊を集めたが、南風のため北海海域に留め置かれ、そこを動くことができなかった。トロンプ提督はブレイク追跡のため北へ転回し、シェトランド諸島沖でイングランド艦隊に追いついたものの、そこでは嵐が吹き荒れて彼の船が難破し、戦闘には至らなかった。1652年8月26日、アイスキューはヴァイス・コマンダー(Vice-commandeur)に任じられたミヒール・デ・ロイテルに指揮されたオランダ護送隊が外海へ向かおうとするのを攻撃したが、プリマス沖海戦(英語版)で名将ロイテルに打ち負かされ、攻撃命令は取り消された。デ・ロイテルは、地中海以東へ向かう商船隊を援護してイギリス海峡を突っ切ることに成功した。 トロンプはシェトランドでの失敗ののち停職となり、ウィット・コルネリスゾーン・デ・ワイズ(英語版)中将に指揮権が託された。オランダ護送隊はイングランドの攻撃から安全な状態を保っており、デ・ワイズは今こそ軍を集中させ、制海権を握る好機であるとみた。1652年10月8日のケンティッシュ・ノックの海戦(英語版)において、オランダはテムズ川河口付近でイングランド艦を攻撃したが、反撃を受けて多数の死傷者を出した。イングランド議会は、オランダ軍の敗色濃厚とみて地中海海域での地位を強化するため、20隻の船を送った。オランダ側が艦隊補強に向けてあらゆる努力を払っているあいだ、イングランドでは戦力が分割され、わずか42人の戦闘員が11月までにブレイクに預けられたのであった。12月のダンジェネス岬の海戦(英語版)ではウィット・デ・ワイズから再び交代したトロンプ提督がイングランドを打ち破っただけでなく、イングランドは地中海艦隊の救援に向かうこともできなくなっていたために、1653年3月のイタリア沖でのリヴォルノ海戦(英語版)での壊滅につながった。ブレークはテムズ川の河口に退却し、オランダは港湾でイングランド船を遮断することができ、イギリス海峡、北海および地中海の制海権を有した。この結果を受けて、クロムウェルは秘密裏にオランダ人たちと平和交渉するため、議会を説得させた。1653年2月、アドリアン・ポーが好意的な反応を示し、オランダ連邦政府からは、平和合意に到達したい旨の真摯な願望をつづった書簡が送られた。 いくつかの成功があったにもかかわらず、オランダ連邦は長引く海戦を継続することができなかった。兵員の強制徴募が禁じられていたため、水夫を十分に引き付けるに足りるだけの給与支払いが巨額な出費となっていたからである。イングランドの私掠船はオランダ船に深刻なダメージをあたえた。オランダはその全植民地を守ることができず、オランダ領ブラジルがポルトガルによって再征服されるのを黙認せざるをえなかった。 政治家たちは両国の対立を終わらせるべく行動し、戦争終結は目前にせまっていたが、戦争にはそれとはまた別の、独自の勢いがあった。1652年から翌年にかけての冬、イングランド人たちは自分たちの船を修理しながら、戦闘中の船の位置づけについて考察した。ロバート・ブレイクは航行と戦闘の指示書を著している。これは、従来の海戦戦術を徹底的に見直したものであり、単縦陣についての説明としては公式には世界初となるものを含んでいた。1653年2月までにはイングランド人たちは挑戦の準備が整っており、3月には3日間にわたるポートランドの海戦(英語版)でオランダ勢力を海峡から完全に追い払い、致命的打撃をあたえた。この戦勝はイングランドにおける平和への希求の突然の終わりを意味した。3月18日、スターテン・ヘネラールはイングランド議会に詳細な和平提案を送ったが、その答えは4月11日になってからようやく送られ、しかも前年6月にアドリアン・ポーに待ちぼうけを食わせたのと同じ要求を繰り返しただけのものであった。イングランド側からすれば、交渉以前にオランダの和平案を受け入れることは交渉の開始を意味していた。オランダ議会(スターテン・ヘネラール)はイングランドからの返答を無視し、4月30日に中立国で交渉を開始するよう求めた。5月23日、クロムウェルは戦前に開会されたランプ議会を解散し、6月5日にスターテン・ヘネラールによってロンドン派遣の決まったオランダ使節を迎えようとした。 その間、イングランド海軍は北海の制海権を握るため、6月のガッバードの海戦(英語版) における3日間の戦闘でオランダの背後をたたき、オランダ船を母港に退去させたうえで海上封鎖を開始した。南部ネーデルランド(ベルギー)のニーウポールト沖で戦われたこの戦闘は史上まれにみる激戦であった。そして、イングランド艦隊による海上封鎖は、ただちにオランダ経済の崩壊ないし飢餓という事態さえ招きかねないものであった。オランダ人たちは、バルト海(中東欧)方面からの小麦とライ麦の定期的な供給が滞ったことで都市に密集する住民を養うことができなくなり、農産物価格が急騰したため、貧しい人びとは食糧をすぐに購入することができなくなってしまった。 この戦争最後の戦いは8月のスヘフェニンゲンの海戦(英語版)(テル・ヘイデの海戦)であったが、これは双方にとって代償の大きな戦闘となった。オランダ人たちはイングランドによる海上封鎖を解こうと必死になって戦い、互いに大きな犠牲をともなう激しい戦いの結果、敗れたオランダ人はテセル島に退却した。しかし、イングランド側もまた、封鎖を断念しなければならなくなった。名将として人望の厚かったマールテン・トロンプ提督はこの海戦の初期に戦死したが、これはオランダ側の士気にとって大きな打撃となり、人びとに厭戦気分を浸透させた。そして、似たような感情はイングランド側でも巻き起こったのである。戦争によって多くの人びとが豊かになった(戦争中、オランダが得た利益は1,200隻の商船ないし商人艦隊全体の8%であり、イングランドにおける無傷の外洋航行可能商船全体の倍に相当する)ものの、取引は全体としておおいに損なわれた。クロムウエルは、2つのプロテスタント国家が自身の始めたこの無用な戦いによってともに消耗しきっていることに自ら憤慨していた。その間、カトリックの国スペインは利益を得ていただけになおさらであった。彼は、6月下旬にロンドンに派遣された4人のオランダ人使節と真剣に交渉を始めることを決定した。和平交渉は1653年9月からロンドンで始まった。双方の敵意は、和平の締結ころまでにはほとんど無くなっていた。
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