はっとり‐はんぞう〔‐ハンザウ〕【服部半蔵】
服部 半蔵 (はっとり はんぞう)
1542〜1596 (天文11年〜慶長元年) |
【武将】 皇居西側に今も半蔵門として名を残す、徳川家康の守り刀。 |
織豊時代の武将。名は正成、通称半蔵(半三とも)。伊賀者を統率し、譜代の武将として徳川家康に仕えた。本能寺の変で、明智光秀軍に追われる家康を伊賀から三河に導き、無事帰還させたされる。その名に由来する半蔵門は、主要街道で唯一江戸城と直結する甲州街道への門となっている。危急の際まっすぐ甲府城へ退ける構造になっていた。伊賀忍者服部半蔵は、後世のフィクションとも言われる。 |
年(和暦) | ||
●1543年 (天文12年) | ■種子島に鉄砲伝来 | 1才 |
●1555年 (弘治元年) | ■川中島合戦 | 13才 |
●1560年 (永禄3年) | ■桶狭間の戦い | 18才 |
●1563年 (永禄6年) | ■三河の一向一揆 | 21才 |
●1573年 (天正元年) | ■室町幕府滅亡 | 31才 |
●1575年 (天正3年) | ■長篠の戦い | 33才 |
●1580年 (天正8年) | ■イギリス商船平戸に来航 | 38才 |
●1582年 (天正10年) | ■本能寺の変 | 40才 |
●1584年 (天正12年) | ■小牧・長久手の戦い | 42才 |
●1587年 (天正15年) | ■バテレン追放令 | 45才 |
●1588年 (天正16年) | ■刀狩令 | 46才 |
●1590年 (天正18年) | ■家康江戸城に入る | 48才 |
●1592年 (文禄元年) | ■文禄の役(〜1596) | 50才 |
人物名 | 年齢差 | |
・天海僧正 | 1536年〜1643年 (天文5年〜寛永20年) | +6 |
・本多 正信 | 1538年〜1616年 (天文7年〜元和2年) | +4 |
・徳川 家康 | 1542年〜1616年 (天文11年〜元和2年) | 0 |
・織田 有楽斎 | 1547年〜1621年 (天文16年〜元和7年) | -5 |
服部半蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:11 UTC 版)
服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍し、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。詳細は不明であるが、忍者だったのは初代半蔵の保長だけであり、2代目以降は忍者ではなかったとされる。
注釈
出典
- ^ 「15 服部半蔵と家康」三重県環境生活部文化振興課県史編さん班
- ^ 桑名藩集成
- ^ a b c d e f 天明由緒(文政10年 1827年 桑名藩)
- ^ a b c d e f g h i j k 桑名藩 元御家人筋并御由緒有之蒙仰御用相勤候家附服部家畧系
- ^ a b c 今治拾遺附録 士族一之巻 服部速水正宣家譜
- ^ 伊賀上島家所蔵文書
- ^ a b 伊賀国近地(服部)系譜 服部彌之助・編/武術史研究1(武芸帖社)
- ^ “大久保長安どんな人? 八王子のまちづくりと伝承地” (日本語). 大久保長安・八王子の治水とまちづくり - ミツカン水の文化センター. 八王子市. 2019年12月1日閲覧。
- ^ “厚遇された半蔵の子孫-桑名藩古文書が伝える” (日本語). 発見!三重の歴史. 三重県. 2016年6月2日閲覧。
- ^ “服部半蔵” (日本語). 郷土史(人物編). 桑名市. 2016年6月2日閲覧。
- ^ 寛政重修諸家譜第1168巻
- ^ a b c 干城録
- ^ a b c d 貞享松平越中守家来服部半蔵書上
- ^ a b c d 忍秘展:初公開沖森文庫所蔵忍秘伝書のすべて:企画展(伊賀上野観光協会 編)より服部正武書写(享保2年/1717年)・服部勘助書写(万延元年/1860年)部分
- ^ a b c 貞享松平隠岐守家来服部半蔵書上
- ^ a b c 服部半三正成武功記 附 伊予国今治藩服部氏略家系
- ^ a b c d 伊賀者由緒書
- ^ 古今要覧稿第2巻 第百二十六 器材部 武具 P.384(198コマ)(国書刊行会/国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 奥瀬平七郎『忍術の歴史 伊賀流忍術のすべて』上野市観光協会
[続きの解説]
「服部半蔵」の続きの解説一覧
- 1 服部半蔵とは
- 2 服部半蔵の概要
- 3 フィクション作品
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