上ノ郷城の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 上ノ郷城の戦いの意味・解説 

上ノ郷城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 22:11 UTC 版)

上ノ郷城の戦い
戦国時代

上ノ郷城跡
1562年永禄5年)
場所 三河国上ノ郷城(現・愛知県蒲郡市
北緯34度49分30秒 東経137度13分30秒 / 北緯34.82500度 東経137.22500度 / 34.82500; 137.22500座標: 北緯34度49分30秒 東経137度13分30秒 / 北緯34.82500度 東経137.22500度 / 34.82500; 137.22500
結果 松平軍の勝利
衝突した勢力
松平軍 今川軍
指揮官
松平元康
服部半蔵
石川数正
鵜殿長照
愛知県における位置
上ノ郷城の戦い (日本)

上ノ郷城の戦い(かみのごうじょうのたたかい)は、1562年(永禄5年)に三河国上ノ郷城(現・愛知県蒲郡市)で行われた攻城戦桶狭間の戦い後に今川氏から独立を図った松平元康(後の徳川家康)が、今川方の重要拠点であった上ノ郷城を攻撃した戦いである。

背景

1560年桶狭間の戦い今川義元が討死すると、松平元康岡崎城に入り自立の動きを見せた。しかし今川氏真松平家の妻子を人質として抑え続けたため、元康は1561年から今川方の城を次々と攻略していった[1][2]

戦闘の経過

1562年、元康は配下の服部半蔵こと服部正成甲賀衆伊賀衆を活用し、今川方の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻撃した。半蔵は少数の忍者を率いて城内に潜入し、今川家の重臣らを捕虜として連行した[3][4]。この戦いで元康は、今川氏真との交渉材料となる有力な人質を獲得することに成功し、捕虜となった長照の子・鵜殿氏長及び鵜殿氏次と引き換えに、元康は妻・瀬名姫と子・竹千代の奪還を実現させた[1][2]

歴史的意義

関連項目

脚注

  1. ^ a b ボトムリー, イアン (2005). 将軍 徳川家康の生涯. ロイヤル・アーマリーズ. p. 12. ISBN 0-948092-58-0 
  2. ^ a b 上ノ郷城跡について”. 蒲郡市博物館. 2024年7月18日閲覧。
  3. ^ タンブル, スティーヴン (2003). ニンジャ 1460-1650. オスプレイ出版. p. 44 
  4. ^ 「服部半蔵」家康の三大危機を救った忠臣の深奥家康に仕えし2人の半蔵、その評価を分けたある力”. 東洋刑済ポンライン. 2024年7月18日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  上ノ郷城の戦いのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

上ノ郷城の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上ノ郷城の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上ノ郷城の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS