上ノ郷城の戦い
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上ノ郷城の戦い | |||||||
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戦国時代中 | |||||||
![]() 上ノ郷城跡 |
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衝突した勢力 | |||||||
松平軍 | 今川軍 | ||||||
指揮官 | |||||||
松平元康 服部半蔵 石川数正 |
鵜殿長照 | ||||||
上ノ郷城の戦い(かみのごうじょうのたたかい)は、1562年(永禄5年)に三河国上ノ郷城(現・愛知県蒲郡市)で行われた攻城戦。桶狭間の戦い後に今川氏から独立を図った松平元康(後の徳川家康)が、今川方の重要拠点であった上ノ郷城を攻撃した戦いである。
背景
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、松平元康は岡崎城に入り自立の動きを見せた。しかし今川氏真は松平家の妻子を人質として抑え続けたため、元康は1561年から今川方の城を次々と攻略していった[1][2]。
戦闘の経過
1562年、元康は配下の服部半蔵こと服部正成ら甲賀衆、伊賀衆を活用し、今川方の鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻撃した。半蔵は少数の忍者を率いて城内に潜入し、今川家の重臣らを捕虜として連行した[3][4]。この戦いで元康は、今川氏真との交渉材料となる有力な人質を獲得することに成功し、捕虜となった長照の子・鵜殿氏長及び鵜殿氏次と引き換えに、元康は妻・瀬名姫と子・竹千代の奪還を実現させた[1][2]。
歴史的意義
- 松平元康は今川氏からの完全独立を果たし、三河平定に向けて大きく前進した。
- 服部半蔵の活躍により、甲賀衆、伊賀衆の軍事的重要性が認識されるようになった。
- この戦いののち、元康は1563年に家康と改名し、徳川氏を称するようになる。
関連項目
脚注
- ^ a b ボトムリー, イアン (2005). 将軍 徳川家康の生涯. ロイヤル・アーマリーズ. p. 12. ISBN 0-948092-58-0
- ^ a b “上ノ郷城跡について”. 蒲郡市博物館. 2024年7月18日閲覧。
- ^ タンブル, スティーヴン (2003). ニンジャ 1460-1650. オスプレイ出版. p. 44
- ^ “「服部半蔵」家康の三大危機を救った忠臣の深奥家康に仕えし2人の半蔵、その評価を分けたある力”. 東洋刑済ポンライン. 2024年7月18日閲覧。
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