第1次七尾城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/20 06:42 UTC 版)
これに対して能登畠山家中は謙信の介入を嫌い、対決する姿勢を鮮明にした。七尾城内では老臣筆頭の長続連以下兵2000での籠城戦と決定する。続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。さらに続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動したのである。ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網があり、これらを全て鎮圧した上で七尾城を囲んだ。しかし、七尾城は畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く、春日山城にも匹敵する堅城だったためさすがの謙信も攻めあぐねていた。そこで七尾城を孤立させるためにその支城群に矛先を転じた。鹿島郡中島町谷内にある熊木城、珠洲市正院町川尻の黒滝城をはじめ、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などが、あっという間に落城し七尾城は孤立した。しかしそれでも、堅城を頼む七尾城の続連らは降伏しなかった。 越年して天正5年(1577年)に入り、3月に北条氏政が北関東方面に出兵したため、謙信は本国の仕置を兼ねていったん越後に帰国した。このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ配置した。
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