第1次世界大戦まで
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「ウジェーヌ・アジェ」の記事における「第1次世界大戦まで」の解説
アジェはこの少し前頃から写真を撮り始めた。18x24センチのガラス乾板を使う木製の暗箱カメラで、レンズボードを上下にあおれるものである。当時、パリの有名な建築物や名所を撮って観光客に売る写真家が多くいたが、そのようなものを撮ることはなかった。アジェが最初に手がけたシリーズは路上で商いをする人々の写真である。 パリに最初に住んだ場所はわからない。1899年10月に、死ぬまで住むことになるモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街17番地乙に引越した。 モンパルナスには多くの芸術家が住んでいた。アジェはアパートのドアに手書きの「芸術家の資料(documents pour artistes)」という看板を掲げ、芸術家に写真を売る生活を始めた。画家に成ろうとしていたとき、多くの芸術家が作品の資料となる写真を求めていることを知ったためである。建物を正確に撮ろうとすると、人や馬車が邪魔になるため、初期の路上の物売りシリーズを除いては朝に撮っていた。
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第1次世界大戦まで
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「パウル・コハンスキ」の記事における「第1次世界大戦まで」の解説
1909年から1911年までワルシャワ音楽院でヴァイオリンの教授に就任する。1909年にルービンシュタインと、カロル・シマノフスキの《ヴァイオリンソナタ ニ短調》の初演を行なう。この三者の出逢いが「若きポーランド(英語版)」として知られる芸術運動への参加につながり、ワルシャワに進歩主義的な音楽姿勢を鼓舞することになった。1911年に、ヴェルトヘイムとの報われぬ恋に敗れたばかりのゾシア・コーン(Zosia Kohn)と結婚し、弁護士であったコーンの父親から、結婚祝いにストラディヴァリウスのヴァイオリンを贈られた。 1913年から1914年までロンドンに行き、シマノフスキとともに、ルービンシュタインからドレーパー夫妻(Paul and Muriel Draper)の音楽サロンを紹介され、そこでイーゴリ・ストラヴィンスキーと出逢う。このサークルには、パブロ・カザルスやジャック・ティボー、ライオネル・ターティス、ピエール・モントゥーらの常連がいた。ストラヴィンスキーから《「火の鳥」からの3曲》の編曲を献呈される。1914年に、ベヒシュタイン・ホールにおいてルービンシュタインのリサイタルに何度か出演し、そのうち一つは同時代の音楽のみを演奏した。 1915年にシマノフスキの《神話》の作曲に協力。1916年にシマノフスキから《ヴァイオリン協奏曲第1番》を献呈され、この作品のためにカデンツァを創っている。同年アウアーの後任教授として1918年までペトログラード音楽院に赴任し、1919年から1920年まではキエフ音楽院の教壇に立った。ペトログラードでは、1915年から面識のあったセルゲイ・プロコフィエフに《ヴァイオリン協奏曲第1番》の助言を求められている。
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