第1次世界大戦・戦間期
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「出雲 (装甲巡洋艦)」の記事における「第1次世界大戦・戦間期」の解説
1913年(大正2年)11月20日、横須賀を出撃。ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦で混乱するメキシコに、邦人保護を目的に派遣された。翌年の1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」(旧「レトヴィザン」)とともに遣米支隊が編成され、出雲は旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。 詳細は「特務艦隊」を参照 1917年(大正6年)8月、第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣される。地中海進出後、第二特務艦隊司令官佐藤皐蔵少将は旗艦を「明石」から「出雲」に変更。第二特務艦隊は、中央同盟国の潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。 1919年(大正8年)7月9日、横須賀軍港で御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた。「出雲」は大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた。 その後、日露戦争で活躍した各艦は練習艦として運用される。「出雲」は遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。1922年(大正10年)9月1日、日露戦闘時代の主力艦は戦艦や巡洋艦から海防艦に類別変更される。「出雲」も一等海防艦になった。同年の「ブラジル独立100年祭記念観艦式」の際には、同型艦の「磐手」や「浅間」と共に参加している。 1924年(大正13年)夏、海軍兵学校第52期生(少尉候補生。源田実など)が「出雲」に乗艦する。当時の出雲第一分隊長は有馬正文大尉だった。 1925年(大正14年)5月24日、秩父宮雍仁親王はヨーロッパ留学のため横浜港で「出雲」(艦長重岡信治郎大佐)に乗艦する。これより先、摂政宮(昭和天皇)は艦載水雷艇で「出雲」に乗艦し、重岡艦長と共に雍仁親王の乗艦を待った。艦上で送別会がおこなわれたあと、摂政宮は高松宮宣仁親王など皇族一同と共に「出雲」から退艦した。正午、「出雲」は横浜港を出港する。摂政宮は御召艇で「出雲」を見送ったあと装甲巡洋艦「日進」に乗艦し、その後東京に戻った。6月6日、秩父宮は香港で「出雲」から貨客船箱崎丸に移乗、ヨーロッパに向かった。 1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変が生起した。「出雲」は艦隊旗艦として艦橋に作戦室を増設することになった。佐世保海軍工廠で改造を実施、電気溶接と突貫作業により、二週間はかかるとみられた工事を3日半ほどで終わらせたという。1934年からは九〇式二号水上偵察機を搭載するようになった。
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