第1次世界大戦・戦間期とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第1次世界大戦・戦間期の意味・解説 

第1次世界大戦・戦間期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:29 UTC 版)

出雲 (装甲巡洋艦)」の記事における「第1次世界大戦・戦間期」の解説

1913年大正2年11月20日横須賀出撃ウエルタ将軍クーデター端を発する内戦混乱するメキシコに、邦人保護目的派遣された。翌年1914年大正3年)に第一次世界大戦勃発すると、装甲巡洋艦浅間」、戦艦「肥前」(旧「レトヴィザン」)とともに遣米支隊編成され出雲旗艦としてアメリカ西海岸防衛する任務当たった詳細は「特務艦隊」を参照 1917年大正6年8月第二特務艦隊増援部隊として地中海マルタ島派遣される地中海進出後、第二特務艦隊司令官佐藤皐蔵少将旗艦を「明石」から「出雲」に変更第二特務艦隊は、中央同盟国潜水艦部隊による通商破壊から船団護衛する任務従事した1919年大正8年7月9日横須賀軍港御親閲式第一次大戦遣欧艦隊対す閲兵が行われた。「出雲」は大正天皇乗艦する御召艦(おめしかん)を務めたその後日露戦争活躍した各艦は練習艦として運用される。「出雲」は遠洋航海に6回参加し士官候補生達を乗せてヨーロッパ米国など世界中回った1922年大正10年9月1日日露戦闘時代の主力艦戦艦巡洋艦から海防艦類別変更される。「出雲」も一等海防艦になった同年の「ブラジル独立100年記念観艦式」の際には、同型艦の「磐手」や「浅間と共に参加している。 1924年大正13年)夏、海軍兵学校52期生(少尉候補生源田実など)が「出雲」に乗艦する当時出雲第一分隊長有馬正文大尉だった。 1925年大正14年5月24日秩父宮雍仁親王ヨーロッパ留学のため横浜港で「出雲」(艦長重岡信治郎大佐)に乗艦する。これより先、摂政宮昭和天皇)は艦載水雷艇で「出雲」に乗艦し、重岡艦長と共に雍仁親王乗艦待った艦上送別会おこなわれたあと、摂政宮高松宮宣仁親王など皇族一同と共に出雲」から退艦した。正午、「出雲」は横浜港出港する摂政宮御召艇で「出雲」を見送ったあと装甲巡洋艦日進」に乗艦し、その後東京戻った6月6日秩父宮香港で「出雲」から貨客船箱崎丸に移乗ヨーロッパ向かった1932年昭和7年1月第一次上海事変生起した。「出雲」は艦隊旗艦として艦橋作戦室増設することになった佐世保海軍工廠改造実施電気溶接突貫作業により、二週間はかかるとみられた工事3日半ほどで終わらせたという。1934年からは九〇式二号水上偵察機搭載するようになった

※この「第1次世界大戦・戦間期」の解説は、「出雲 (装甲巡洋艦)」の解説の一部です。
「第1次世界大戦・戦間期」を含む「出雲 (装甲巡洋艦)」の記事については、「出雲 (装甲巡洋艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第1次世界大戦・戦間期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第1次世界大戦・戦間期」の関連用語

第1次世界大戦・戦間期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第1次世界大戦・戦間期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの出雲 (装甲巡洋艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS