土岐頼元とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 戦国武将辞典 > 土岐頼元の意味・解説 

土岐頼元(とき よりもと) 1549~1608

五郎左衛門 頼重 道庵 越前守
◇父:土岐頼芸 子:土岐持益
 美濃守護・土岐氏一族。父頼芸が逐われた後も美濃残り斎藤家に従う。斎藤氏滅亡後甲斐・武田氏、さらに羽柴氏徳川氏仕えた

土岐頼元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 07:42 UTC 版)

 
土岐 頼元
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 生年不詳
死没 慶長13年10月19日1608年11月26日
改名 頼元→道庵
別名 頼重、通称:五郎左衛門
官位 越前守
幕府 江戸幕府旗本
主君 斎藤道三義龍龍興武田信玄豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼芸、母:六角定頼
兄弟 頼栄頼次頼宗頼元
持益
テンプレートを表示

土岐 頼元(とき よりもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将土岐頼芸の四男。別名は頼重。斎藤頼元とも。通称は五郎左衛門、越前守、号は道庵。

経歴

美濃国守護大名・土岐頼芸の四男として誕生。母は六角定頼の娘。兄に頼次

父・頼芸が家臣の斎藤道三に追放されたとき、幼少だったために斎藤家の扶助を受けることを許された。斎藤家滅亡後は各地を転々とし、武田家豊臣家、そして徳川家に仕えて、土岐氏の家名を存続した。豊臣秀吉から河内古市郡内に500石を与えられた。関ヶ原の戦い後は徳川家康に仕えて、美濃国内に知行を与えられたという。隠居後は道庵と称した。

寛政重修諸家譜』によれば、慶長13年(1608年)10月19日死去、年齢は不詳。家督は子・持益が相続した。なお、頼元は斎藤姓を称し、子の持益が土岐姓に戻したという。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「土岐頼元」の関連用語

土岐頼元のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



土岐頼元のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの土岐頼元 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS