土岐頼功とは? わかりやすく解説

土岐頼功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/16 09:27 UTC 版)

 
土岐頼功
時代 江戸時代後期
生誕 享和3年10月11日1803年11月24日[1]
または寛政12年(1800年[2]
死没 天保14年4月16日1843年5月15日[1]
または同年4月24日(同年5月23日[2]
墓所 東京都品川区北品川東海寺春雨庵
官位 従五位下山城守
幕府 江戸幕府 奏者番
主君 徳川家斉家慶
上野沼田藩
氏族 堀氏土岐氏
父母 父:堀親長、母:不詳
養父:土岐頼潤
兄弟 堀親忠有馬氏恕堀親民堀親寚頼功遠藤胤富正室、秋月種備正室ら
土岐頼潤の次女
鈴子ら
養子:西尾忠受正室頼寧
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土岐 頼功(とき よりかつ)は、江戸時代後期の大名上野国沼田藩の第9代藩主。官位従五位下山城守。沼田藩土岐家第12代。

略歴

信濃国飯田藩主・堀親長の九男として江戸にて誕生した。

文政9年(1826年)11月16日、先代の土岐頼潤が死去したため、その末期養子となって跡を継いだ。同年12月1日、11代将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下・山城守に叙任する。文政11年(1828年)9月1日、奏者番となった。天保11年(1840年)4月12日、病気を理由に奏者番を辞める。

天保の大飢饉では、領内に大被害を受けている。天保11年(1840年)6月7日、隠居して養子の頼寧(頼潤の実子)に家督を譲る。天保14年(1843年)4月16日(または24日)、41歳(または44歳)で江戸にて死去した。墓所は萬松山東海寺春雨庵。

系譜

父母

正室

  • 鍼 - 土岐頼潤の次女

子女

養子、養女

脚注

  1. ^ a b 土岐頼功」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E5%8A%9Fコトバンクより2025年4月16日閲覧 
  2. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』新人物往来社、1986年、p.364。




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