六角義賢の書状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 14:34 UTC 版)
上記書状は六角義賢の書状で、宇佐山城の戦いで森可成以下数百名を討ち取ったことを浅井方に知らせるために、地元の土豪市川吉澄が船を用意したことに対して礼を述べている。日付は9月21日森可成を討ちとった翌日で、2行目と3行目に「森三左衛門尉以下数百人討死」との記載が見られる。その後、六角義賢は浅井・朝倉連合軍と共に比叡山に立てこもることになるが、元亀元年(1570年)11月に浅井・朝倉連合軍の先頭を切って義賢と信長は和睦することになる。
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