三雲成持とは? わかりやすく解説

三雲成持(みくも しげもち) 1540~1603

新左衛門尉 豊左衛門尉
◇父:三雲定持 兄:三雲賢持 子:三雲成長
 南近江六角氏家臣。兄の戦死家督相続。「六角式目」には父と共に連署している。家中において重きをなし、多く文書発給している。衰退する主家最期まで忠義尽くした主家滅亡浪人するが、1584年織田信雄、後に蒲生氏郷仕えた

三雲成持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/03 03:14 UTC 版)

 
三雲 成持
時代 戦国時代後期
生誕 天文9年(1540年
死没 慶長8年(1603年
別名 豊左衛門[1]、新左衛門尉(通称)
主君 六角義賢織田信長信雄蒲生氏郷徳川家康
氏族 有道氏流三雲氏
父母 父:三雲定持
兄弟 賢持成持、三郎左衛門
成長
テンプレートを表示

三雲 成持(みくも しげもち)は、戦国時代武将。三雲城城主。当初は六角氏に属し、六角六宿老の一人で、父の三雲定持六角定頼から、兄の三雲賢持六角義賢からそれぞれ偏諱の授与を受けている。

生涯

近江国戦国大名六角氏に仕えていた。永禄9年(1566年)、浅井長政との戦いで兄の賢持が討死したため家督を継ぐ。翌年には家中の六宿老の一人として六角氏の分国法である六角氏式目に署名している。成持は六角氏の被官というよりは蒲生氏などと同じように緩やかな同盟者に近い立場にあったが、六角家中に影響力を与えるほどの有力な存在であった。領内の寺社を独自に統制し、恩賞の決裁を独自に行なうなど、その権力は相当なものであったと言われている。

永禄11年(1568年)、織田信長が近江国に侵攻。六角氏は観音寺城の戦いに敗れ、本拠を失い衰退した。その後の三雲氏は独立勢力として六角氏の再起を支援するなどしたが、元亀元年(1570年)に六角軍が織田軍に挑んだ野洲河原の戦いで父・定持が戦死[2]するなど劣勢となり、天正3年(1575年)には佐久間信盛を通じて織田氏に降伏した。程なく浪人となったが、天正12年(1584年)頃に織田信雄に仕え、旧領復帰の約束を受けて、小牧・長久手の戦いでは信雄方として参戦、兵約700人を率いて伊勢松ヶ島城滝川雄利らとともに籠城した。しかし、信雄と羽柴秀吉が和睦した為に旧領復帰は果たせず、和睦後は織田氏を離れ、蒲生氏郷に4000石で仕えた。後、蒲生氏が没落すると徳川氏に仕え、子の成長は徳川氏の旗本として旧領復帰を果たしている。

ちなみに彼の兄・三雲賢持の子が真田十勇士で有名な忍者猿飛佐助のモデルであるとする説もある(詳細は猿飛佐助の項目を参照)。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 山本大・小和田哲男 『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月25日、72頁。 
  2. ^ 『野洲町史第2巻 (通史編 2)』p16-18 野洲町 1987年3月31日刊 全国書誌番号:87037576

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三雲成持」の関連用語

三雲成持のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三雲成持のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三雲成持 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS