三雲佐助賢春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:05 UTC 版)
司馬遼太郎は、小説『風神の門』において、「明治末期〜大正年間に立川文庫の作者達が創った」とする説を紹介し、「猿飛佐助の命名は、玉秀斎を中心とした作家グループ達が行った」との説を補筆している。それを司馬は「半ば真実かもしれない」と理解を示した上で、「すでに江戸時代には大阪の庶民の間で語り継がれていた」とする岡本良一の異説を紹介し、『淡海故録』および『茗渓事蹟』を出典に、「三雲新左衛門賢持の子、三雲佐助賢春が猿飛佐助である」と実在説を支持している(三雲佐助賢春は六角氏の重臣である三雲成持の甥にあたる)。1719年頃成立の『厭蝕太平楽記』に、幸村が九度山蟄居の際に伴った身近な家臣としてこの名前が登場する。
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