実在説
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「タラシヒコ」という称号について「オオタラシヒコオシロワケ」の「オシロワケ」の部分が15代応神天皇の「ホムダワケ」(誉田別、品陀和気)と共通して「ワケ」を含んでいることから、「オシロワケ」という実名を基に和風諡号が作られた可能性があるため実在した可能性が高いとする説もある。また古代から「若帯部」などの存在が確認されており、「タラシ」が古い歴史を持っていたことを考慮すると、これら諸天皇の称号が必ずしも後世の造作とはいえないともされる。5世紀後期に実在した雄略天皇の皇女にも稚足姫皇女がおり、『古事記』では皇室と無関係の大国主神の系図に遠津山岬帯神の名が見える。 『古事記』の景行天皇の記事は少ないが、その他の天皇や実在性の高い5世紀代の天皇の事績についても、『日本書紀』に比べて圧倒的に記事が少ない。
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実在説
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「ナスレッディン・ホジャ」の記事における「実在説」の解説
ホジャを実在の人物とする説は、14世紀後半から15世紀前半のオスマン帝国のバヤズィト1世と同時代の人物とする説、13世紀のルーム・セルジューク朝の時代に生存していた説の二つに大別される。 ホジャの物語の中にはアンカラの戦いでバヤズィト1世を破ったティムールとのやり取りを書いたものが相当あり、ティムール、バヤズィト1世の治世にホジャが存命していたことになる。17世紀にアクシェヒルを訪れたトルコの旅行家エヴリヤ・チェレビはホジャがムラト1世、バヤズィト1世の時代の人物であると記述し、19世紀後半にトルコの文学者メフメト・テヴフィクは自身が編集したホジャの物語集の序文で彼がバヤズィト1世の時代の人物であると述べた。テヴフィクによるホジャの物語集が1890年にドイツ語に訳されたため、一時期ホジャをバヤズィト1世と同時代の人物とする説がヨーロッパでも広く信じられていた。しかし、エヴリヤ・チェレビが紹介した「ホジャのティムールの値踏み」は詩人アフメディーとティムールのやり取りがホジャを主人公とする頓知話に書き換えられたものだと見なされており、バヤズィト1世と同時代の人間とする説には批判が加えられている。 ホジャの小話の中には13世紀のトルコの詩人シェイヤド・ハムザが登場するものがあり、古版本にはホジャが「アラーウッディーン」という名前のスルターンと出会う物語が述べられている点から、ホジャを13世紀のルーム・セルジューク朝の人物とする考えが存在する。1918年にトルコの文学者・政治家のファト・キョプリュリュはホジャをルーム・セルジュークの人物とする学説を展開し、ヒジュラ暦605年(1208年/9年)にホジャがスィヴリヒサール(英語版)近郊のホルト村でイマーム(宗教指導者)のアブドゥッラー・エフェンディの子として生まれ、ヒジュラ暦635年(1237年/8年)にイマームの地位を他人に譲ったホジャはアクシェヒルに移住し、ヒジュラ暦683年(1284年/5年)に没したと説明した。 1940年にはイスマーイール・ハーミ・ダーニシュメンドによって、13世紀後半にカスタモヌ地方を支配したベイリク国家のチョバンオウル侯国の王子ナースルッディーン・マフムードをホジャの正体とし、キョプリュリュの主張よりもやや後の時代の人物とする説が唱えられた。ダーニシュメンドが依拠したパリの国立図書館に収蔵されている史料には、ナースルッディーン・マフムードがルーム・セルジューク朝のマスウード2世に仕え、イルハン朝から派遣されたゲイハトゥを機知と弁舌によって丸め込んだことが記されている。1945年にイブラーヒーム・ハック・コンヤルはホジャを14世紀末の人物とする説、キョプリュリュ、ダーニシュメンドらの説に批判を加えながらも、やはりルーム・セルジューク時代の人間だと結論付ける。 コンヤのメヴラーナ博物館にはホジャの娘ファーティマのものとされる、14世紀前半に没した人物の墓碑が収蔵されている。オスマン皇帝メフメト2世の教師であるフズル・ベイはホジャの子孫とされ、テヴフィクは16世紀末のムラト3世の時代のイスタンブールにホジャの子孫が現れた逸話を紹介している。
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実在説
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王道生『施耐庵墓志』によれば、名は彦端といい、号は子安もしくは耐庵といった。平江路呉県の出身。本貫は泰州海陵県。至順2年(1331年)、進士となり官途についたが、至正13年(1353年)に元末の反乱軍の首領の張士誠に見込まれて参謀となった。施耐庵は参謀として多くの策略を上申したが、張の勢力が拡大すると、張がおごりたかぶって人の言うことを聞かなくなってしまった。そのため、官を棄てて郷里に帰り、医師や教師をしていた。張が滅亡した後、明を建国した朱元璋が張の残党を厳しく追及したため、施耐庵は隠居。『水滸伝』の元となった『江湖豪客伝』・『三国志演義』・『平妖伝』などを執筆し、門人の羅貫中に校正させていたという。一説に『三国志演義』の著者が施耐庵とされるのは、この「墓誌」による。
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