吉田重政とは? わかりやすく解説

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吉田重政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/06/02 06:45 UTC 版)

 
吉田 重政
時代 戦国時代
生誕 文明17年(1485年
死没 永禄12年6月10日1569年7月23日
改名 長千代丸(幼名[1]、重政、一鴎(号)
別名 実重[2]、秀重[2]、方雄[2]、豊経[2]
通称:助三郎[2]、助左衛門
戒名 法池一鴎大居士[3]
官位 従五位下出雲守
主君 六角義賢朝倉義景→六角義賢
氏族 吉田氏佐々木氏支族)
父母 父:吉田重賢
兄弟 重政和泉守若狭守松本民部少輔
重高重勝
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吉田 重政(よしだ しげまさ)は、戦国時代武将弓術家。六角氏の家臣。官位従五位下出雲守[1]

略歴

文明17年(1485年)、六角氏家臣で吉田流(日置流)弓術の祖である吉田重賢の子として誕生する。弟の和泉守若狭守とともに弓術の名声が高く[4]、重賢とともに足利義晴の弓術指南役を務めた[2]

その後、主君の六角義賢(承禎)より弓術の伝授を請われるが、日置流は唯授一人を基本としていたため、重政はこれを断った。そのため義賢と不仲になり、代々の領地を離れて一乗谷に移り住み、越前朝倉氏に仕えた[5]。一乗谷では上原高家(豊前守)から弓書を相伝した[注釈 1]

6年後、朝倉義景の取りなしによって義賢の元に帰参すると、義賢と養子縁組を結び、弓術を伝授した。これにより重政は義賢より7ヶ所の地を宛がわれた。後に義賢は重政の嫡子、重高(露滴)を養子に迎えて吉田流を伝授したという[4][5]

永禄4年(1561年)、義賢に従い、京都三好義興と戦った[4]

永禄12年(1569年6月10日に死去。享年85。

系譜

本朝武芸小伝による。

石堂竹林如成日置流竹林派の祖)は重政に射を習い、竹林派を称した。

脚注

注釈

  1. 日夏は、重政が一乗谷で高家から相伝した伝書の奥書に永正12年、近江帰国の際に相伝した伝書の奥書に永正17年とあることから、重政が一乗谷へ移ったのは永正12-13年(1515年-1516年)、近江に帰国したのは永正17年(1520年)であろう、ただ義賢(1521-1598)の年齢を考えれば証拠とはし難い、としている[5]

出典

  1. 1 2 長坂 1939, p. 80.
  2. 1 2 3 4 5 6 宇野 1970, p. 136.
  3. 長坂 1939, p. 6.
  4. 1 2 3 山本、小和田 1981, p. 73-74.
  5. 1 2 3 日夏 1920, p. 25-26.

参考文献

関連項目

外部リンク




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