京都御馬揃えと左大臣推任
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「織田信長」の記事における「京都御馬揃えと左大臣推任」の解説
天正9年(1581年)1月23日、信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。 2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的な馬揃えを行った(京都御馬揃え)。これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。『信長公記』では「貴賎群衆の輩 かかるめでたき御代に生まれ合わせ…(中略)…あり難き次第にて上古末代の見物なり」とある。 3月5日には再度、名馬500余騎をもって信長は馬揃えを挙行した。このため、この京都御馬揃えは信長が正親町天皇に皇太子・誠仁親王への譲位を迫る軍事圧力だったとする見解もあり、洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になったという。 3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の何らかの意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足している。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。譲位と信長の左大臣就任は延期されることになった。ただし、この時に出された陰陽寮(土御門久脩・賀茂在昌)の3月21日付の勘文を正親町天皇が書写したものが東山御文庫に現存しており、その写しには金神のことが記されているため、少なくても21日の段階で朝廷側は金神の年の問題を知っており、譲位と左大臣就任の延期も朝廷側の申入で3月24日の信長の返事は延期の了承であるとする見解もある。 8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった。
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