発言者は誰か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 11:39 UTC 版)
従来伝承されていた『晴豊公記』は、天正10年4月分から同年9月分が欠けていたが、1968年(昭和43年)岩沢愿彦が内閣文庫(現国立公文書館)にあった『天正十年夏記』が『晴豊公記』断簡であることを発表した。岩沢の解釈では、「太政大臣、関白、将軍の三職いずれかに推任するのがよい」と言った主体を(正親町天皇の意向を受けた)晴豊としており、以後もこの解釈を受け、信長はこの天皇の意向を突っぱねたとする説が通説化していた。 ところが、歴史研究家の立花京子が晴豊の日記全体の「被申候」使用例を分析した結果、村井貞勝の言葉と解釈し、独断専行を嫌う信長に無断で貞勝が発言するはずがないとし、信長の将軍任官の意向を踏まえたものであったと主張したことにより、歴史学者の間で賛否両論の論争となった。また立花説では、5月4日付けの記事にある「将軍になるべき」との晴豊の言葉を朝廷公式の意向であったとし、「御らん」(森蘭丸)を派遣した信長の意図を真意を隠しわざと当惑して見せたものとする。立花はこの解釈に基づき、三職推任を信長の勝利と位置づけ、朝廷が拒めなかったものとした。 今谷明は立花説の解釈に立脚しながら、信長は朝廷の権威に屈服し中世的権力関係を指向せざるをえなかったとしている。 一方、堀新は『晴豊公記』の5月4日付けの記事や、『誠仁親王消息』などの資料から、三職いずれかなどという曖昧な推任をしたのは誰も信長の真意を理解していなかったための行動であり、貞勝と信長との間にこの件に関する打ち合わせをした形跡がないことなどから、三職推任は信長の意向とは言えず、5月4日の晴豊の言葉も晴豊個人の見解であると反論している。
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