水野忠胤とは? わかりやすく解説

水野忠胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 12:59 UTC 版)

水野 忠胤(みずの ただたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名水野勝成の弟。徳川家康の従弟であり、織田信長の娘婿に当たる。三河国内で1万石を領し、幕府の大番頭を務めたが、自邸での宴席で配下の者が浜松藩主松平忠頼を殺害する事件を起こし、あわせて配下の者の統制が問題視されたために切腹させられた。


注釈

  1. ^ 忠頼の母方祖母・於大の方は、忠胤の父・水野忠重の姉にあたるため、忠頼は忠胤の従甥(いとこおい)という関係になる。また、忠胤の正室(織田信長の娘・於振)と忠頼の正室(織田長益の娘)は従姉妹どうしである。
  2. ^ 『寛政譜』の水野忠胤の記事では招宴とあるが[1]、忠頼の記事では事件は「茶室」で起こったとされ[3]、茶会とも解される[4]
  3. ^ なお、この年9月から10月にかけては、公家の乱脈事件である猪熊事件の処分が行われている。
  4. ^ 『徳川実紀』によれば「海保三吉某」はかねて大刀を好む人物であったという[7]。海保三吉は下総国寺台城主(現在の千葉県成田市寺台)の城主であった人物で、成田周辺においては「海保甲斐守三吉」[8]あるいは「海保三吉氏次(甲斐守)」[9]の名でも伝わり、合戦でいったんは討死したが蘇生した、巨体の持ち主で怪力であった、成田山を厚く信仰した、最期は寺台城に立て籠り追討をかけられて自刃した、など、種々の伝説に彩られて語られる[8][9][10][11][12]
  5. ^ 『寛政譜』の小尾光重(仁左衛門。小尾祐光の子)の項には、当該事件の記事がある[13]
  6. ^ 『寛政譜』の藤方安正(平九郎。藤方朝成の子)の項には、安正は大番に列して500石を知行していたが、慶長14年(1609年)に「故ありて」浪人となり、元和8年(1622年)に再び幕臣になったと記載がある[14]
  7. ^ 『寛政譜』の松平忠利(九郎右衛門。三木松平家)の項には、慶長14年(1609年)10月16日に伏見守衛在任中の「落度」を咎められて改易されたが、寛永9年(1632年)7月17日に赦免を受けて召し帰されたとある[15]。『徳川実紀』寛永9年(1632年)7月17日条には、慶長14年(1609年)10月に勘気を蒙った松平九郎右衛門忠利・小尾仁左衛門光重・水野彦九郎重勝・太田新左衛門信盛らが赦免を受けた記事がある[16]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.831
  2. ^ a b 『角川新版日本史辞典』, p. 1310.
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五「松平 桜井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27
  4. ^ 第四章>第一節 幕府政治の推移と浜松城主>浜松城主>松平忠頼”. 浜松市史 二(ADEAC所収). 2023年5月6日閲覧。
  5. ^ a b c d 『台徳院殿御実紀』巻十・慶長十四年九月朔日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』pp.476-477
  6. ^ a b c 『台徳院殿御実紀』巻十・慶長十四年九月廿九日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.479
  7. ^ a b c d e f g h i j 『台徳院殿御実紀』巻十一・慶長十四年十月十六日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』pp.481-482
  8. ^ a b 成田ゆかりの人々”. 広報なりた特集号 平成14年1月1日号. 成田市. 2023年5月22日閲覧。
  9. ^ a b 大力無双の海保甲斐守(一) 仁王様を取って投げる”. 広報よこしば 第46号 昭和43年7月1日. 横芝町. p. 3. 2023年5月22日閲覧。
  10. ^ 大力無双の海保甲斐守(二) 大力自慢の武士をふみ殺す”. 広報よこしば 第47号 昭和43年8月1日. 横芝町. p. 3. 2023年5月22日閲覧。
  11. ^ 大力無双の海保甲斐守(三) 悲壮!嶋の坊で自刃”. 広報よこしば 第48号 昭和43年9月1日. 横芝町. p. 3. 2023年5月22日閲覧。
  12. ^ a b c 『房総叢書 第3巻』, pp. 156–157, 85/230コマ.
  13. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百七十二「小尾」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.1018
  14. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百六十五「藤方」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.421
  15. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.17
  16. ^ 『大猷院殿御実紀』巻廿・寛永九年七月十七日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第二編』pp.250-251
  17. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.833
  18. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.825
  19. ^ a b 福山市水呑町ー妙蓮寺 13-妙蓮寺縁起”. 2023年5月24日閲覧。(現地掲示板写真あり)
  20. ^ 『寛政重修諸家譜』巻四百八十八「織田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.558
  21. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第八十五「丹羽」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.484
  22. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第千三百五十八「南条」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.101


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