南条宜政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 07:56 UTC 版)
南条 宜政(なんじょう よしまさ[1])は、江戸時代初期の武将。伯耆の国人南条氏の一族で、南条(小鴨)元清の子。
注釈
- ^ 幕末期の熊本藩(細川家)重臣宮村典太がまとめた『藻塩草』によれば、元宅(元清)が慶長19年(1614年)10月に病死した際、病身の嫡子「勘三郎」に代えて嫡孫の藤八郎(のちの南条元信)に跡目を譲るよう遺言したが、大坂にいた二男で庶子の作十郎(宜政)に立てる動きがあり、その結果宜政が跡式を継いだ[2]。南条家中でこれを不服とした派は、藤八郎を奉じて加藤家を退転し、小倉藩細川家に仕えたという[2]。なお南条元信は細川家(小倉藩→熊本藩)で3000石を食む重臣となり、藩主細川忠利の四男南条元知が元信の養子となって跡を継いだ[2]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』は大坂の陣後に加藤清正・忠広に仕えたように記しているが、清正は大坂の陣以前の慶長16年(1611年)に没している。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では諱は記されていない。「土井内蔵允」は土井家重臣で、土井利勝の同母弟・土井内蔵允元政が土井家(古河藩)城代家老を務めている[3]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によれば宗俊には四男二女がある。宗俊の二男俊宜は水野姓を称して甲府徳川家に仕え、三男元鋪は土井大炊頭家(古河藩)に仕え、四男旗本立花家に養子に入り(立花種秀)、長女は旗本水野忠増(水野忠職の弟)の養女となった[1]。
出典
[続きの解説]
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