南条元秋とは? わかりやすく解説

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南条元秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/25 02:07 UTC 版)

 
南条元秋
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正8年8月13日1580年9月21日
別名 通称:九郎左衛門
墓所 鳥取県東伯郡湯梨浜町長和田
官位 左衛門尉
父母 父:南条宗勝
兄弟 元続小鴨元清元秋
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南条 元秋(なんじょう もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。父は伯耆国羽衣石城主・南条宗勝。兄に南条元続小鴨元清がいる。

生涯

伯耆国羽衣石城主・南条宗勝の子として生まれる。

詳しい経歴は不明だが、元々「九郎左衛門」という通称は叔父の南条信正が名乗っていた。叔父・信正は天正4年(1576年)頃には「備前守」を名乗っていることが確認されるため、この頃に元秋が「九郎左衛門」の通称を襲名したものと思われる。また、「吉川元春他連署書状」によれば、河村郡竹田谷[1]に所領があったことが分っている。

天正8年(1580年8月12日から13日にかけて行われた長和田・長瀬川の戦い(通称・長和田の十三日崩れ)で南条方の大将として参戦。吉川元春軍の先陣を務める杉原盛重の軍勢と激しく戦ったが、相手方の猛攻により重傷を負い、撤退の最中に味方の裏切りによって討ち取られ戦死した。

伯耆民談記』等によると重傷を負った元秋は植木縄手[2]で度々落馬して中間によって辻堂の中で介抱されていた。重臣の津村基信(津村長門)が心配して来るのを中間は敵の追っ手と勘違いして元秋の首を斬り降参しようとした。そのことに津村基信は激怒し、その中間を斬り殺したという。

元秋の戦死後、元秋が戦死した地の村人は元秋のに悩まされたため、を建てた[3]。現在は五輪塔が建っており、その傍らには平成12年(2000年)に羽衣石南條顕彰会が建立した、「南条元秋公終焉の地」の石碑がある。

元秋の死に関しての異説

『東郷町誌』には鳥取市青谷町の潮津神社の宮司の家の系譜に「南条元秋が橋津合戦での討ち死にを偽り、この家の養子となったのが4代当主・花原九郎左衛門源元穐である。」と記されていることが紹介されているが、真偽のほどは定かではない。

脚注

  1. ^ 現在の鳥取県東伯郡三朝町付近。
  2. ^ 現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町、旧・花見小学校前の道。
  3. ^ 地元では「隈田さん」と呼ばれている。

参考文献

  • 鳥取県史編さん室編『鳥取県史 第2巻 中世編』(鳥取県1973年
  • 高橋正弘『因伯の戦国城郭 通史編』(自費出版1986年
  • 東郷町誌編さん委員会編『東郷町誌』(東郷町、1987年)
  • 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名』(平凡社1992年
  • 鹿賀康之『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』(ハーベスト出版、2018年)135-136頁



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