水野氏再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:39 UTC 版)
天正8年(1580年)難を逃れた一族は信長に再興を許され、水野忠政・四男水野忠守は尾張国小河(緒川)の、水野忠政・九男水野忠重は刈谷の旧領に復した。この時、水野忠重が信元の家督を継いだ宗家の継承者とされたことは石高からみても明らかである。 緒川城を継いだ水野忠守(水野忠政・四男)は、天正13年頃に秀吉に背き緒川城を退去したが、その嫡男、水野忠元は徳川秀忠の側近となり下総山川藩主となった。子孫からは享保の改革を補佐した水野忠之や天保の改革を主導した水野忠邦など、著名な老中を輩出した。 刈谷城を継いで宗家となった水野忠重は信元存命の頃から徳川家康に仕えていたが、水野家再興後は織田信雄に仕え、信雄が羽柴秀吉と講和してからは秀吉の家臣となった。秀吉の命令で一時伊勢国神戸に転封されるも、ほどなく刈谷に復し、秀吉の死後は徳川家康に従うが、関ヶ原の戦い直前に石田三成方の加賀井重望に殺害された。忠重の跡を継いだ長男水野勝成は、若い頃は乱暴者であったが知勇に秀で、特に大坂夏の陣では抜群の軍功をあげ備後福山藩10万石を有する大名となった。忠重の次男水野忠胤と四男水野忠清も共に家康に仕え、忠胤は三河国内1万石を有する大名に、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となった。 若い頃から信長の直臣であった水野忠分(水野忠政・八男)は、天正6年(1578年)有岡城の戦いで戦死したが、その子水野分長は、蒲生氏郷と徳川家康に仕え、緒川城主を経て、上野安中藩水野家の祖となった。また分長の弟水野重央も徳川家康に重用され、紀伊徳川家の御附家老なった。
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