水野石見守家
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忠政の兄とされる「水野成政」の系譜。『寛政譜』(6巻116項)と『新編 東浦町誌 資料編3』所収の乾坤院所蔵水野系図「水野氏嫡流略系図」および「石見守水野氏御系図」による。「水野氏嫡流略系図」ではこの家を嫡流とする。しかし結城水野家とのあいだに、嫡庶についての争いがあったという(『寛政譜』6巻35頁および116頁)。 0.成政 藤助 尾州平島城主 大永2年(1522年)9月16日卒 法名・鐵肝栄心 1.成清 常陸介 緒川城主 天文2年(1533年)3月24日 緒川にて「生害」 妻は忠政の女 法名・孝山励忠 1.長勝 石見守 母は忠政の女 慶長14年(1609年)11月3日卒 法名・寿光浄圓 2.女(荒川十郎大夫某の妻) 長勝は、父「生害」の時2歳。母と共に刈谷へ逃れるが、母が松平家広に再婚するにあたり形原へ同行、家広の養育を受けるという。のち信長に仕えて「石ヶ瀬の戦い」に参加。信長の死後は北条氏政に仕え、小田原征伐では鉢形城主北条氏邦の配下となっていた。北条氏滅亡後、天正19年に家康に仕えて武蔵国男衾郡に800石を与えられる。慶長7年伏見城番、同9年従五位下石見守となる。慶長14年伏見にて死去。78歳。 長勝の子水野忠貞が近畿8国の奉行職を務め5,000石、その子水野忠顯は大番頭で6,000石を与えられて、従五位下に叙任された。なお忠顯は水野忠清の4男で、次代・水野忠富、次々代・水野忠英はいずれも松本水野家3代水野忠直の子である。それゆえ水野忠重の直系となっている。
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