水野祐の「三王朝交替説」
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「王朝交替説」の記事における「水野祐の「三王朝交替説」」の解説
昭和初期(戦前)、津田左右吉は記紀が皇室の日本統治の正当性を高めるために高度な政治的な理由で編纂されたとの意見を表現し、有罪判決を受けた。 戦後になって記紀批判が行えるようになり、昭和29年(1954年)、水野祐が『増訂日本古代王朝史論序説』を発表。この著書で水野は、古事記の記載(天皇の没した年の干支や天皇の和風諡号など)を分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てたが、これは皇統の万世一系という概念を覆す可能性のある繊細かつ大胆な仮説であった。水野は、古事記で没した年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、半数に満たない15代であることに注目し、その他の18代は実在しなかった(創作された架空の天皇である)可能性を指摘した。そして、15代の天皇を軸とする天皇系譜を新たに作成して考察を展開した。仮説では、記紀の天皇の代数の表記に合わせると、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝の興廃があったとされる。崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝の3王朝が存在し、現天皇は継体王朝の末裔とされている。 水野祐の学説は当時の学界で注目はされたが賛同者は少なく、その後水野の学説を批判的に発展させた学説が古代史学の学界で発表された。井上光貞の著書『日本国家の起源』(1960年、岩波新書)を皮切りに、直木孝次郎、岡田精司、上田正昭などによって学説が発表され、王朝交替説は学界で大きくクローズアップされるようになった。古代史の学説を整理した鈴木靖民も王朝交替論は「古代史研究で戦後最大の学説」と著書『古代国家史研究の歩み』で評価している。また、王朝交替説に対して全面的に批判を展開した前之園亮一も著書『古代王朝交替説批判』のなかで、万世一系の否定に果たした意義を評価している。
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