織田信秀 (侍従)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 13:42 UTC 版)
織田 信秀(おだ のぶひで)は、安土桃山時代の武将。織田信長の6男。諱は祖父である戦国大名・織田信秀と同名である。通称は三吉(さんきち)で、羽柴の氏と豊臣の姓を授けられて三吉侍従と呼ばれた[5]。法号を浦坊。
- ^ a b 岡田 1999, p. 129
- ^ a b c 堀田 1923, p. 557.
- ^ “『織田系図』”. 東京大学史料編纂所. 2016年10月25日閲覧。
- ^ 稲葉貞通は織田信秀(備中守)の娘を妻にしており、重縁の関係になる。
- ^ a b c d e 高柳 & 松平 1981, p. 54
- ^ 堀田 1923, p. 569.
- ^ 家督はなぜか相続しなかった[5]。叔父である織田信貞の娘を妻にしていたが、これも離縁されている[6]。
- ^ 比叡山で賊に襲われて殺害された[2]。
- ^ a b c d e f g h i 岡田 1999, p. 130
- ^ 天正15年頃に17歳であったという[9]。
- ^ a b 岡田 1999, pp. 129–130.
- ^ 信長の七男の信高の幼名を小洞(こぼら)といい、大洞と小洞であたかもセットのようであるが、規則性のない信長の子供の名前から、生母を判断するというのは少し無理があろう。
- ^ 岐阜県揖斐郡大野町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
- ^ 『島本順八氏所蔵文書』による[11]。
- ^ これも『島本順八氏所蔵文書』による[5]。
- ^ 『長安寺文書』による[9]。
- ^ 九州平定後の7月に最初の禁教令が発布された。
- ^ 序列は、侍従の官位を持つ大名の中で13番目であり、蒲生氏郷、細川忠興に次ぎ、叔父織田長益の上位にあった。
- ^ 吉村 1934, pp. 117, 128, 141.
- ^ 『松浦古事記』による[19]。
- ^ 吉村 1934, pp. 172–174.
- ^ a b 岡田 1999, p. 131.
- ^ 岡田 1999, pp. 130–131.
- ^ 『衣斐文書』による[23]。
- 1 織田信秀 (侍従)とは
- 2 織田信秀 (侍従)の概要
- 3 脚注
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