神仏分離以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 09:05 UTC 版)
明治元年(1868年)に神仏判然令が出されると、両寺院ともに還俗して神職となり、寺院は廃寺とした。 その後、本宮は旧正幢院の建物をそのまま里宮に転用して安定した歩みを示すのに対し、親宮の歩みは揉めたものとなる。当初は寺院時代の檀家を背景に長岡の氏神とされたが、明治37年(1904年)8月に管理・修復を目的として氏子一同が親宮の権利一切を鈴木宗吉という人物に委ねたところ、その後の大正年間(20世紀前葉)に氏子との間に不和が生じたため、鈴木宗吉を排斥して親宮は本宮の管理するところとなった。この際に親宮の里宮は廃され、現在は本宮の里宮が親宮の里宮を兼ねている。
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