ホータキー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 01:40 UTC 版)
ホータキー朝(ホータキーちょう、パシュトー語: د هوتکيانو ټولواکمني)は、18世紀のアフガニスタンでギルザイ部族連合が興したイスラーム王朝[1][2]。1709年4月、ギルザイ族の一支族、ホータク族の族長ミール・ワイスがローイ・カンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻し成立した[1]。最盛期には、短期間ではあるが現在のアフガニスタン、イラン、パキスタン西部、タジキスタンやトルクメニスタンの一部に跨る広大な土地を支配していた。1738年のカンダハール包囲戦においてフサイン・ホータキーがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗北し滅亡[3]。
- ^ a b Malleson, George Bruce (1878). History of Afghanistan, from the Earliest Period to the Outbreak of the War of 1878. London: Elibron.com. p. 227. ISBN 1402172788 2010年9月27日閲覧。
- ^ Ewans, Martin; Sir Martin Ewans (2002). Afghanistan: a short history of its people and politics. New York: Perennial. p. 30. ISBN 0060505087 2010年9月27日閲覧。
- ^ “AN OUTLINE OF THE HISTORY OF PERSIA DURING THE LAST TWO CENTURIES (A.D. 1722-1922)”. Edward Granville Browne. London: Packard Humanities Institute. p. 33. 2010年9月24日閲覧。
- ^ * 前田耕作、山根聡『アフガニスタン史』河出書房新社、2002年10月、34-35頁。ISBN 978-4-309-22392-6。
- ^ デイヴィッド・ブロー『アッバース大王 現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー』中央公論新社、2012年6月、368頁。ISBN 978-4-12-004354-3。
- ^ 山内昌之「イラン改革とシーア派」『近代イスラームの挑戦』中央公論社〈世界の歴史20〉、1996年12月、258頁。ISBN 978-4-12-004354-3。
- ^ "AŠRAF ḠILZAY". Encyclopaedia Iranica, Online Edition. 2005. 2018年8月12日閲覧。
- ^ ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店〈世界歴史叢書〉、2005年4月、339-342頁。ISBN 978-4-7503-2070-0。
- ^ *東亜研究所, 1942、『アフガニスタンの諸民族』, p. 55, - Google ブックス
- ^ Romano, Amy (2003). A Historical Atlas of Afghanistan. The Rosen Publishing Group. p. 28. ISBN 9780823938636 2010年10月17日閲覧。
- ^ Nadir Shah and the Afsharid Legacy, The Cambridge history of Iran: From Nadir Shah to the Islamic Republic, Ed. Peter Avery, William Bayne Fisher, Gavin Hambly and Charles Melville, (Cambridge University Press, 1991), p. 11.
- ^ a b Otfinoski, Steven Bruce (2004). Afghanistan. Infobase Publishing. p. 8. ISBN 9780816050567 2010年9月27日閲覧。
- ^ Runion, Meredith L.. The History of Afghanistan. p. 63
- ^ a b c “AN OUTLINE OF THE HISTORY OF PERSIA DURING THE LAST TWO CENTURIES (A.D. 1722-1922)”. Edward Granville Browne. London: Packard Humanities Institute. p. 29. 2010年9月24日閲覧。
- ^ a b “Last Afghan empire”. Louis Dupree, Nancy Hatch Dupree and others. Encyclopædia Britannica. 2010年9月24日閲覧。
- ^ “Account of British Trade across the Caspian Sea”. Jonas Hanway. Centre for Military and Strategic Studies. 2010年9月27日閲覧。
- ^ Axworthy pp.39-55
- ^ “AN OUTLINE OF THE HISTORY OF PERSIA DURING THE LAST TWO CENTURIES (A.D. 1722-1922)”. Edward Granville Browne. London: Packard Humanities Institute. p. 31. 2010年9月24日閲覧。
- ^ “AFGHANISTAN x. Political History”. D. Balland. Encyclopaedia Iranica. 2010年9月24日閲覧。
- 1 ホータキー朝とは
- 2 ホータキー朝の概要
- 3 関連項目
ホータキー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)
「アフガニスタンの歴史」の記事における「ホータキー朝」の解説
詳細は「ホータキー朝」を参照 1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族の族長の一人ミール・ワイス・ホータキー(英語版)に率いられサファヴィーに反乱を起こした。まず、カンダハールを攻撃し、陥落させた。その後、ペルシャに乗り込んだ。1715年ミールワイスが死ぬと息子のマフムード(英語版)が争いの末後継者となり、サファヴィー朝の王座を奪い、1722年ペルシャの首都イスファハーンに向かい、ペルシャ軍を破り、長きにわたる戦いの末、イスファハーンを襲撃する。1725年世を去った。その後を従弟のアシュラフが継ぎ、オスマン軍を破ったが、1729年にナーディル・クリー・ベグの率いる復活したペルシャ軍に敗北する。
※この「ホータキー朝」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「ホータキー朝」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。
ホータキー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:01 UTC 版)
1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホータキー(英語版)が反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立した。 1719年、ホータキー族のミール・マフムード(英語版)がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻した。 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い(英語版))。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。 1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。 1729年、アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダムガンの戦い(英語版))。 1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅した。 現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャワールはシーク教徒に奪われた。
※この「ホータキー朝」の解説は、「アフガニスタン」の解説の一部です。
「ホータキー朝」を含む「アフガニスタン」の記事については、「アフガニスタン」の概要を参照ください。
- ホータキー朝のページへのリンク