ホーソーンとマックリンの言い分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 22:00 UTC 版)
「1955年のル・マン24時間レース」の記事における「ホーソーンとマックリンの言い分」の解説
フランスのマスコミはホーソーンの車線変更と減速が不適切な判断であったとして批判した。ピットイン直前に周回遅れを抜く必要があったのか、あるいは停車位置をオーバーランしたことから、ファンジオとの首位争いに熱中しすぎてピットインを忘れ、慌ててピットに滑り込もうとしたのではないかと疑われた。 ホーソーンは自伝『Challenge Me the Race』の中で、マックリンを抜きつつ進路変更するだけの余裕があると計算し、「ピットが近づいてきたので片手を挙げ、ブレーキをかけ、進路を変えた」「目前の事故に呆然としたため、ピットの前を通り過ぎてしまった」と説明した。ジャガーチームのロフティ・イングランド監督は、周回遅れよりも数段速い車に乗るホーソーンの判断は適切だったと擁護し、マックリンは後続に注意を払っていてホーソーンのブレーキングに気づくのが遅れたのではないかと私見を述べている。自動車ジャーナリストのポール・フレールも同様の見解で、ピットまで1kmのあいだ周回遅れの後ろで待つ必要はなかったとしている。 マックリンはホーソーンの進路変更を、ファンジオとの先頭交代で観客を楽しませる余興と思ったが、直後に自分の20-30m前で突然ブレーキングを開始したと供述している。ホーソーンの自伝が出版されると『デイリー・ミラー』紙上で「合図など一切見なかったし、私の前に充分なスペースなどなかった」と反論し、ホーソーンを相手取り誹謗を申し立てる訴訟を起こした。 事故直後のホーソーンは動揺し「もうおしまいだ、クルマには乗らない」と洩らしたが、レースに参加し続けた。ゴール後には、優勝者に贈られるシャンパンを飲みほしながら高笑いしたことが批判の対象となった。フランスの自動車雑誌『ロト・ジュルナル(L'Auto-Journal)』はこの場面の写真に「A Votre santé,Monsieur Hawthorn!(あなたの無事を祝して、ムッシュ・ホーソーン!)」と皮肉な見出しをつけた。
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