衰退から滅亡へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:52 UTC 版)
1629年にアッバース1世が亡くなった後は、孫のサフィー1世が即位した。第四次オスマン・サファヴィー戦争(英語版)では、1638年に反撃に出たオスマン帝国によってイラクを失い、1639年にはガスレ・シーリーン条約(英語版)によってオスマン朝との間の国境線が確定した。 1642年に10歳のアッバース2世が即位すると、大宰相サルー・タキ(ペルシア語版)が実権を掌握したが、1645年にサル・タキが政敵に暗殺されると親政を開始。1648年にはムガル帝国からカンダハールの奪還に成功した。 1666年に、政治への関心をもたない君主サフィー2世スライマーンが即位した。この時の様子は、フランス人商人ジャン・シャルダンがエスファハーンを訪れた紀行文「ペルシア王スレイマーンの戴冠」(1670年出版)から知ることが出来る。サフィー2世スライマーンのもとで、君主権力が絶対的な専制国家となっていたサファヴィー朝の活力を急速に失わせた。1669年頃、コサックのスチェパン・ラージンによるカスピ海沿岸への略奪(ダゲスタン・ペルシア・アストラハン遠征)では、デルベント、バクー、ラシュトを抜かれた。 無能な君主スルターン・フサインが続いたことで18世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。特にアフガニスタンでパシュトゥーン人のギルザイ部族に属するミール・ワイス(英語版)が1709年に起こした反乱は、カンダハールにホータキー朝を自立させるに至った。1719年、ミール・ワイスの子ミール・マフムード(英語版)はペルシア本土への進軍を開始しケルマーンを攻略した。 1722年、ホータキー朝軍がイスファハーンに迫るに至ってスルターン・フサインはようやく討伐軍を派遣したが、3月8日、グルナーバードの戦い(英語版)においてサファヴィー朝軍は数において勝るにもかかわらず惨敗、壊滅した。マフムードはイスファハーンを包囲し、10月21日にフサインは退位、マフムードに降伏した。イスファハーンを失ったサファヴィー朝はこれにより事実上滅亡する。
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