衰退から終焉へ
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承元2年(1208年)、24代別当に湛政が就任すると、京都と鎌倉の対立により、熊野の内外が不安定化していった。まず、湛政のもとに置かれた権別当が相次いで失脚・交代した。また、西国への足がかりとして熊野に隣接する伊勢を利用しようとする動きを鎌倉幕府が見せたことへの反発から事件が相次いで起こった。承久元年(1219年)2月に志摩国への熊野山衆徒の侵入事件が起きたが、これは新宮家の人々による鎌倉幕府に圧力をかける試みであったと考えられている。さらに紀伊国における親幕府派の中心にいた湯浅宗光が、熊野山衆徒の強訴により配流される事件が起きた。紀伊国を親上皇・反幕府でかためようとするこれらの動きが顕著になるにつれ、幕府との間の関係に緊張が漂いだした。 承久3年(1221年)に承久の乱が起こり、後鳥羽院が倒幕の兵を挙げると、田辺家の快実(湛顕の嫡男)と新宮家の尋快(行快の嫡男)が上皇方に参加した。しかしながら、熊野三山の統治体制と深い関わりをもつ院の挙兵に際し、熊野は統一した態度と行動を示すことが出来なかった。湛政は静観に努めたが、田辺・新宮の両家から上皇・幕府両陣営への参加者が出ており、別当家一族が互いに戦うことこそ避けられたが、湛政ら中立派を含めて三派に分裂してしまった。 加えて、戦いは幕府の一方的な勝利に終り、多くの荘園・所領・所職が失われた。特に田辺家は快実をはじめ次代を担う人材を数多く失ったばかりか、近接する南部庄や芳養上庄に幕府が地頭を送り込んできたことで、財政基盤が損なわれるにとどまらず、幕府の監視下におかれるようになった。新宮家の損害はそれに比べれば小さく、佐野庄地頭職などの一定の既得権益を確保することに成功したばかりか、幕府の御家人によって間近で監視されることも回避することができた。この他にも、宇治川での敗北後に捕縛・刑死・配流に処せられた者、逃亡を余儀なくされた者もおり、新宮・田辺を問わず別当家の勢力は弱まった。 さらに、鎌倉幕府は、和泉国・紀伊国の両国で停止していた守護職を再設置し、逃亡者の探索に当たらせた。また、鶴岡八幡宮の別当であった定豪を新熊野検校に任じ、三山の直接掌握を図った。こうした中、承久の乱のあいだ静観につとめた湛政が安貞3年(1222年)に死去すると、承久の乱に関わらなかった琳快(りんかい)が25代の別当に就任し、湛顕の弟湛真が権別当に就任した。しかしながら、琳快は、上皇方に加担した元羽黒山別当尊長をかくまった疑いをかけられて下野国足利に配流された。政治力のある後ろ盾を得られなくなった熊野別当には、こうした鎌倉幕府の介入を斥けることはもはや出来なかったのである。 26代別当の快命、ついで27代別当の湛真以後、新宮家と田辺家はあらためて交互に別当職を努めることになった。その後、承久の乱の処罰や追及が弛緩したのか、上皇方で戦った後、姿を隠していた尋快が28代の別当に就任する一幕も見られた。31代別当には田辺家嫡流の正湛が就くが、正湛が弘安7年(1284年)9月に還俗し、宮崎姓を称したことにより熊野別当職を担う家系としての熊野別当家は断絶したと『熊野年代記』は伝えている。しかし、田辺(小松)家嫡流の正湛が新宮行遍家の通姓である宮崎を名乗るのは不自然に過ぎるし、信憑性に欠ける。しかも、これ以後も熊野別当の名は確実な史料中に確認されているので、熊野別当家は断絶せず、続いていたと見なすべきであろう。 ところで、熊野別当家勢力が衰え始めた13世紀末期になると、那智山は那智執行、滝本執行、宿老、在庁との合議制によって一山運営をおこなうようになり、熊野三山の中で半ば独立した存在になっていった。
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