衰退から滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:35 UTC 版)
しかし15世紀に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラがアラゴン王フェルナンド1世の攻撃により陥落し、またこの頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。 ポルトガルによるセウタ占領(1415年)、カスティーリャによるジブラルタル占領(1462年)によりジブラルタル海峡がキリスト教徒のものとなり、ナスル朝にとっては貿易のみならず、兵力の調達が困難となった。また、政情不安にともなってジェノヴァ商人の足もナスル朝から遠のき、経済的にも影響が大きかった。さらに、ナスル朝内部でも王族間では君主位をめぐる対立や、マラガ、グアディクスでの王族の割拠による分裂があった。また、有力家門の間でも王族を巻き込んだ政治闘争が続き、一時はカスティーリャ王国もこれに巻き込まれたこともあった。また、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合が成立し、カトリック両王による攻勢が強まっていった。 このような内紛と外寇の続くなかで、アブルハサン・アリーはカスティーリャ王国への貢納を拒否するだけでなく、攻撃を開始した。戦闘は、同王国の報復を招いただけで、ナスル朝を利することはなかった。さらにアブルハサン・アリーは、息子ムハンマド11世(ボアブディル)が反乱を起こし1482年にグラナダを奪ったため、マラガへ撤退し国は二分されてしまった。翌1483年ムハンマド11世はルセーナに対し攻撃を行なったものの敗れ、カトリック両王の捕虜となってしまった。このため、彼の父アブルハサン・アリーが2年間復位した後に、その弟ムハンマド12世がアルメリアで即位した。捕虜となったムハンマド11世は釈放され、叔父ムハンマド12世とは一旦は1486年にその即位を認める事態があったものの、抗争を繰り返した。同じ1486年には、ムハンマド11世がムハンマド12世のいるグラナダの一部を占拠し、この間マラガ、アルメリアなど次々にムハンマド12世の勢力圏の主要都市がキリスト教徒に攻略されていくなかで、ムハンマド12世はグラナダでカスティーリャ軍との戦いに敗れティリムサーンに落ち延びた。この状況にあっても、ムハンマド11世は対抗するムハンマド12世の勢力への援軍を送らなかった。
※この「衰退から滅亡」の解説は、「ナスル朝」の解説の一部です。
「衰退から滅亡」を含む「ナスル朝」の記事については、「ナスル朝」の概要を参照ください。
- 衰退から滅亡のページへのリンク