衰退から倒産へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/08 18:00 UTC 版)
「エリー・ラッカワナ鉄道」の記事における「衰退から倒産へ」の解説
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道の持ち株会社であるデレコ (Dereco) が買収して、1968年3月1日にデレコの子会社であるエリー・ラッカワナ鉄道 (Erie Lackawanna Railway) として再編された。4月1日付で、ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道とチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道の間で提案されていたが結局実現しなかった合併の条件として、資産が移管された。この当時デレコはデラウェア・アンド・ハドソン鉄道も所有していた。 1972年、ハリケーン・アグネス(英語版)が特にニューヨーク州南西部において、多くの線路と関連施設を破壊した。修理の費用と失われた収入のために会社は倒産し、6月26日に連邦倒産法77条に基づく再建を申請した。州間高速道路80号線が1971年までにペンシルベニア州およびニュージャージー州を横切って完成したことで、かつて獲得したピギーバック輸送が逸走し、エリー・ラッカワナ鉄道の財務問題はさらに深刻化した。一方でエリー・ラッカワナ鉄道は、シカゴとニューヨーク都市圏を結ぶ輸送がペン・セントラル鉄道(旧ニューヨーク・セントラル鉄道)より遅いが信頼できるとして、大規模なピギーバック輸送の契約をUPSから獲得した。たとえば、1971年時点でペン・セントラル鉄道はニューヨーク都市圏とシカゴ都市圏の間ではオフィシャル・ガイド・オブ・レールウェイズ(英語版)によれば24時間30分でピギーバック輸送を行うとしていたが、エリー・ラッカワナ鉄道の従業員向け時刻表によるとこれに対応する輸送は28時間45分であった。1973年時点では、ペン・セントラル鉄道の最速は26時間15分であったが、エリー・ラッカワナ鉄道の最速は29時間30分であった。 1972年の倒産後は、エリー・ラッカワナ鉄道の経営陣は、重い債務の負担なしに財務の再編を行うことを望み、独立路線をいこうと考えていた。このため、当初はコンレールが他の破綻した東部の大鉄道会社を買収することに参加する関心がなかった。コンレールの準備段階および最終の鉄道網計画によれば、エリー・ラッカワナ鉄道はチェシー・システムに統合されることになっていた。しかし、労働組合と妥協に達することができなかった。また1975年時点でアメリカ合衆国東部の経済は1973年に発生したオイルショックの影響を大きく受けており、政府の支援で再建されるコンレールに対抗して、エリー・ラッカワナ鉄道が独自に競争してやっていける望みはまったくなくなってしまった。このため、エリー・ラッカワナ鉄道は最後の段階でコンレールへの参加を申請し、受け入れられた。 1976年に会社の鉄道資産のほとんどは連邦政府によって買い上げられ、他の会社の鉄道資産を合わせてコンレールが発足した。独立したエリー・ラッカワナ・エステートはそれから数年間存続した。この会社はエリー・ラッカワナ鉄道のわずかな非鉄道資産を清算し、エリー・ラッカワナ鉄道とその前身が積み上げてきた債務の債権者に対して、鉄道資産の売却代金と合わせて配当を行った。債権者は、伝統的な鉄道事業を継続していくよりも多くの金を売却によって受け取ることができた。このため、エリー・ラッカワナ鉄道は存続するよりも解散した方がよかった企業の一例となっている。
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