衰微と廃絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 08:08 UTC 版)
時代が下るにつれて職員の充実、式次第の整備、更に付随する行事の創設などによりより優雅な宮中行事となってゆくが、やがて健児の制の一環という本来の目的は薄れ、毎年同じ相撲人が選出されるなど職業化が進んだ。11世紀半ばに御所で火災が相次ぎ、里内裏が一般化するとともに相撲節会の儀式の簡素化、縮小化がはじまる。白河上皇は盛んに節会を行ったが、12世紀前期は僧兵の出現などで平安京の治安が悪化して、保安3年(1122年)を最後に永らく停止される。後白河天皇の保元3年(1158年)に再興したが平治の乱により再び中絶、承安4年(1174年)に1回のみ再興したが、これが宮中行事としての相撲節会の最後となった。 以降後鳥羽天皇が復興をめざして故実の調査を命じた。また、正親町天皇の時に相撲天覧が行われたと吉田司家の史料に見えるが、確証はない。相撲はその後、各地の神社における神事相撲、武士の鍛錬としての武家相撲、さらに今日に続く民間の勧進相撲へと受け継がれてゆく。
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