衰退する王国と復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:36 UTC 版)
「マラーター王国」の記事における「衰退する王国と復興」の解説
6月、宰相バーラージーは失意の中で死亡し、息子のマーダヴ・ラーオが宰相位を継いだ。 だが、パーニーパトの敗戦の結果、諸侯の独立性は強まり、マラーター王国の宰相を中心とする体制は崩れた。問題はそれだけでなく、マラーター王国を取り巻くニザーム王国やマイソール王国がその衰退を見て、勢力を拡大しようとするようになった。ニザーム王国はマーダヴ・ラーオとその叔父ラグナート・ラーオの争いに目をつけ、後者に味方する形で介入、マラーター王国の弱体化を狙った。 1763年8月、マーダヴ・ラーオはアウランガーバード付近ラークシャスブヴァンでニザーム王国の軍勢を破り、820万ルピーの地を割譲させた(ラークシャスブヴァンの戦い)。 一方、マイソール王国ではパーニーパトの敗戦の結果、マラーター王国の勢力が本国に引き返したため、ムスリム軍人のハイダル・アリーが権力を握った。彼は周辺諸国を侵略し、南インドの制圧に乗り出し、マラーター王国の領土に侵入して対立するようになった。 そのため、1764年から1767年にかけて、マーダヴ・ラーオはマイソール王国へ2度遠征を行った。この2度にわたる遠征により、マイソール王国の勢力拡大に一応の歯止めをかけることができた。 1769年末以降、マーダヴ・ラーオはデリーに向けて5万人の兵をもって向かい、この遠征にはシンディア家の当主マハーダージー・シンディアも途中から加わった。約一年間を通して行われたこの遠征で、北インド一帯のアフガン勢力に攻撃が行われ、その制圧に成功した。
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