衰退と「ターイファ」の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 衰退と「ターイファ」の時代の意味・解説 

衰退と「ターイファ」の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:49 UTC 版)

イスラーム期のシチリア」の記事における「衰退と「ターイファ」の時代」の解説

シチリア王国」も参照 シチリアアミール政権ムスリム体制内における王朝内部紛争によって断片化始めたシチリアアミール位を奪回したハサン・アル=サムザム英語版)は1044年廃位され、島は以下のような4人のカーディー領、または小さな封建的領地(fiefdoms)に細分化した。 アブドゥッラーフ・ブン・マンクート(Abdallah ibn Mankut):トラパニTrapani)、マルサーラMarsala)、マザーラ(Mazara)、シャッカSciacca)のカーディー領(qadit)。 イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs):アグリジェントカストロジョヴァンニ(Castrogiovanni)、カストロヌオーヴォ(Castronuovo)。 イブン・マクラーティー:パレルモカターニアCatania)。 イブン・スムナ(Ibn Thumna):シラクサまた、主邑パレルモは街の有力者による自治が行われるようになった1038年イタリアのカテパノに任命されたゲオルギオス・マニアケス(英語版率いビザンツ軍がメッシーナ海峡渡りノルマン人英語版)の軍団組み入れた1040年の夏に別の決定的勝利を収めた後、マニアケスはシラクサ包囲しこれを征服することに成功した。にもかかわらずコンスタンティノープル起きた政変によって彼はその地位追われその後ムスリム反撃によってビザンツ帝国征服した都市全て奪還された。ビザンツ帝国新たな司令官アルギュロスノルマン人の心を繋ぎとめることに失敗しノルマン人たちは鉄腕呼ばれたグリエルモ英語版)(ウィレルムス)を自らの指導者として選出しビザンツ帝国反旗を翻したこの間シチリアの各カーディー合従連衡繰り返し、イブン・スムナがアブドゥッラーフを撃破して最も有力な君主となった。しかし、その後のイブン・アル=ハッワースとの戦いには敗れ危機陥ったイブン・スムナはノルマン人助け求めた11世紀までに南イタリア本土勢力ノルマン人傭兵雇用するようになっていた。彼らはヴァイキングの子孫のキリスト教徒である。この時イブン・スムナが見返りとして領土与えるという約束結んだことが、後のノルマン人によるシチリア征服端緒となる。 イブン・スムナからシチリア全土約束されたとされるノルマン人首領ルッジェーロ1世(ロゲリウス1世)は1061年メッシーナ占領したその後、イブン・スムナと共に周辺地域制圧したが、1062年には同時行にアプーリアカラーブリア手に入れていた兄のロベルト・グイスカルド(グイスカルドゥス)にイタリア半島呼び出され移動したルッジェーロ1世不在中にイブン・スムナは殺害されてしまい、彼と共にいたノルマン人たちはメッシーナへの退却余儀なくされた。 ルッジェーロ1世シチリアイタリア往復しながら島の再征服試み戦い一進一退続けたこの中で北アフリカズィール朝ムスリム援軍送った。しかし、この部隊1063年チェラーミ戦い英語版)で打ち破られた。多数キリスト教徒たちがムスリム支配に対して反乱起こした1068年ルッジェーロ彼の兵士たちは再び、ズィール朝ムスリム軍をミジルメーリ撃破したズィール朝軍団はこの敗北の後、混乱の中でシチリア島から去りカターニア1071年ノルマン人の手落ちたその後1072年1月10日1年包囲の末パレルモ陥落したトラパニもまた同年降伏した一連の征服活動で、主要な港湾都市失ったことは島内ムスリム権力深刻な打撃与えた最後活動的な抵抗が行われた一角は、イブン・アッバード(ベナヴェルト)が統治するシラクサであった。彼は1075年ルッジェーロ1世息子ジョルダンJordan)を破り1081年にはカターニア奪回その後すぐにカラーブリア襲撃した。しかし、ルッジェーロ1世1086年シラクサ包囲した。イブン・アッバードは海戦によって包囲破ろうとしたが、その中で不意に死亡してしまった。この敗北の後シラクサ降伏し、イブン・アッバードの妻と息子はノートとブテラに逃れたその間、Qas'r Ianni市(エンナ)は未だその地のアミール、イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs)によって支配されており、彼は数年にわたり踏み止まった彼の後継者、ハンムード(Hammud)は、1087年継承後すぐに降伏しキリスト教改宗した改宗の後、ハンムードはキリスト教徒貴族一部となり、ルッジェーロ1世によってカラーブリア与えられ邸宅家族と共に隠居した1091年最後アラブ人拠点であるシチリア南端のブテラとノート、及びマルタ島が、あっけなくキリスト教徒シチリア王の手落ちたノルマン人シチリア征服の後、彼らは現地アミールであるユースフ・ブン・アブドゥッラーフ(Yusuf Ibn Abdallah)を権力の座から排除したが、それはアラブ人慣例に従って行われた

※この「衰退と「ターイファ」の時代」の解説は、「イスラーム期のシチリア」の解説の一部です。
「衰退と「ターイファ」の時代」を含む「イスラーム期のシチリア」の記事については、「イスラーム期のシチリア」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「衰退と「ターイファ」の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「衰退と「ターイファ」の時代」の関連用語

衰退と「ターイファ」の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



衰退と「ターイファ」の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイスラーム期のシチリア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS