衰退と「ターイファ」の時代
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「イスラーム期のシチリア」の記事における「衰退と「ターイファ」の時代」の解説
「シチリア王国」も参照 シチリアのアミール政権はムスリム体制内における王朝の内部紛争によって断片化し始めた。シチリアのアミール位を奪回したハサン・アル=サムザム(英語版)は1044年に廃位され、島は以下のような4人のカーディー領、または小さな封建的領地(fiefdoms)に細分化した。 アブドゥッラーフ・ブン・マンクート(Abdallah ibn Mankut):トラパニ(Trapani)、マルサーラ(Marsala)、マザーラ(Mazara)、シャッカ(Sciacca)のカーディー領(qadit)。 イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs):アグリジェント、カストロジョヴァンニ(Castrogiovanni)、カストロヌオーヴォ(Castronuovo)。 イブン・マクラーティー:パレルモ、カターニア(Catania)。 イブン・スムナ(Ibn Thumna):シラクサ。 また、主邑パレルモは街の有力者による自治が行われるようになった。 1038年、イタリアのカテパノに任命されたゲオルギオス・マニアケス(英語版)率いるビザンツ軍がメッシーナ海峡を渡り、ノルマン人(英語版)の軍団を組み入れた。1040年の夏に別の決定的勝利を収めた後、マニアケスはシラクサを包囲しこれを征服することに成功した。にもかかわらず、コンスタンティノープルで起きた政変によって彼はその地位を追われ、その後のムスリムの反撃によってビザンツ帝国が征服した都市は全て奪還された。ビザンツ帝国の新たな司令官アルギュロスはノルマン人の心を繋ぎとめることに失敗し、ノルマン人たちは鉄腕と呼ばれたグリエルモ(英語版)(ウィレルムス)を自らの指導者として選出してビザンツ帝国に反旗を翻した。 この間、シチリアの各カーディーは合従連衡を繰り返し、イブン・スムナがアブドゥッラーフを撃破して最も有力な君主となった。しかし、その後のイブン・アル=ハッワースとの戦いには敗れ、危機に陥ったイブン・スムナはノルマン人に助けを求めた。11世紀までに南イタリア本土の勢力はノルマン人傭兵を雇用するようになっていた。彼らはヴァイキングの子孫のキリスト教徒である。この時イブン・スムナが見返りとして領土を与えるという約束を結んだことが、後のノルマン人によるシチリア征服の端緒となる。 イブン・スムナからシチリア全土を約束されたとされるノルマン人の首領ルッジェーロ1世(ロゲリウス1世)は1061年にメッシーナを占領した。その後、イブン・スムナと共に周辺地域を制圧したが、1062年には同時行にアプーリアとカラーブリアを手に入れていた兄のロベルト・グイスカルド(グイスカルドゥス)にイタリア半島へ呼び出され移動した。ルッジェーロ1世の不在中にイブン・スムナは殺害されてしまい、彼と共にいたノルマン人たちはメッシーナへの退却を余儀なくされた。 ルッジェーロ1世はシチリアとイタリアを往復しながら島の再征服を試み、戦いは一進一退を続けた。この中で、北アフリカのズィール朝がムスリムに援軍を送った。しかし、この部隊は1063年にチェラーミの戦い(英語版)で打ち破られた。多数のキリスト教徒たちがムスリムの支配に対して反乱を起こした。1068年、ルッジェーロと彼の兵士たちは再び、ズィール朝のムスリム軍をミジルメーリで撃破した。ズィール朝の軍団はこの敗北の後、混乱の中でシチリア島から去り、カターニアは1071年にノルマン人の手に落ちた。その後、1072年1月10日に1年の包囲の末パレルモが陥落した。トラパニもまた同年に降伏した。 一連の征服活動で、主要な港湾都市を失ったことは島内のムスリム権力に深刻な打撃を与えた。最後の活動的な抵抗が行われた一角は、イブン・アッバード(ベナヴェルト)が統治するシラクサであった。彼は1075年にルッジェーロ1世の息子ジョルダン(Jordan)を破り、1081年にはカターニアを奪回、その後すぐにカラーブリアを襲撃した。しかし、ルッジェーロ1世は1086年にシラクサを包囲した。イブン・アッバードは海戦によって包囲を破ろうとしたが、その中で不意に死亡してしまった。この敗北の後シラクサは降伏し、イブン・アッバードの妻と息子はノートとブテラに逃れた。その間、Qas'r Ianni市(エンナ)は未だその地のアミール、イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs)によって支配されており、彼は数年にわたり踏み止まった。彼の後継者、ハンムード(Hammud)は、1087年の継承後すぐに降伏し、キリスト教に改宗した。改宗の後、ハンムードはキリスト教徒貴族の一部となり、ルッジェーロ1世によってカラーブリアに与えられた邸宅に家族と共に隠居した。1091年、最後のアラブ人の拠点であるシチリア南端のブテラとノート、及びマルタ島が、あっけなくキリスト教徒シチリア王の手に落ちた。ノルマン人のシチリア征服の後、彼らは現地のアミールであるユースフ・ブン・アブドゥッラーフ(Yusuf Ibn Abdallah)を権力の座から排除したが、それはアラブ人の慣例に従って行われた。
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