アフマド・シャー・ドゥッラーニーの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 07:46 UTC 版)
「ドゥッラーニー帝国」の記事における「アフマド・シャー・ドゥッラーニーの治世」の解説
1709年、ミールワイス・ホータク(英語版)を中心とするギルザイ部族連合がカンダハールでサファヴィー朝に反旗を翻し、ホータキー朝を樹立した。彼の息子であるマフムード・ホータク(英語版)は1722年から1725年の短期間でペルシア一帯を支配し、自らをペルシアのシャーと名乗った。しかし、1738年のカンダハール包囲戦においてアフシャール朝のナーディル・シャーに破れ、ペルシアを30年に渡り支配したホータキー朝は滅亡した。 1747年は、アフガニスタンにとってペルシア、ムガル両帝国から完全に独立した政体を獲得した決定的な年といえる。1747年10月、カンダハール付近の都市で行われた大会議においてアフマド・シャー・ドゥッラーニーが新たなパシュトゥーン人の指導者に選出され、ドゥッラーニー朝を興した。アフマドは他の候補者より若年であったが、彼の出身家系は政治的な影響力をもっていたこと、そして彼の父親であるムハンマド・ザマーン・ハーンはヘラートの知事であり、パシュトゥーン人を守る戦いで戦死していることなどが選出の際に考慮されている。
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