ロシア帝国国家基本法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 01:46 UTC 版)
| ロシア帝国国家基本法 | |
|---|---|
| Основные Государственные Законы Российской империи | |
|   
       第一ドゥーマの開会勅語を朗読するニコライ2世
       | |
| 施行区域 |  ロシア帝国 | 
| 効力 | 廃止 | 
| 成立 | 1906年4月23日(ロシア暦) 1906年5月6日(グレゴリオ暦) | 
| 公布 | 1906年4月23日(ロシア暦) 1906年5月6日(グレゴリオ暦) | 
| 施行 | 1906年4月23日(ロシア暦) 1906年5月6日(グレゴリオ暦) | 
| 政体 | ツァーリズムと立憲君主制の折衷 | 
| 元首 | 皇帝 | 
| 立法 | 国会 国家評議会 | 
| 行政 | 閣僚会議 | 
| 司法 | 元老院 | 
| 新憲法 | ロシア共和国憲法 | 
| 作成 | ピョートル・ハリトーノフ セルゲイ・ウィッテ[1] | 
| 署名 | ニコライ2世 | 
ロシア帝国国家基本法(ロシアていこくこっかきほんほう、ロシア語: Основные государственные законы Российской империи)は、1906年にロシアで定められた憲法。
概要
1905年、ロシア第一次革命が勃発し、皇帝ニコライ2世は十月詔書でドゥーマ(国会)の開設を約束した。しかし、革命が収束に向かうと、ツァーリ政府はドゥーマの無力化を図るべく、法律などの整備を行った。その仕上げとしての役割を果たしたのが、1906年4月23日に公布された国家基本法(憲法)である。
制定に際しては憲法制定会議は開かれず、大臣会議で作成された案をツァーリ同席のもとで採択し、ロシア民衆に下賜する形がとられた。すなわち、欽定憲法であった。
憲法では皇帝に最高統治権、法律裁可権、外交指導権、宣戦布告・講和締結権、官僚任免権などが認められており、国会閉会時における非常事態にも皇帝の広範な権力が認められていた。
出典
関連項目
参考文献
- 和田春樹ら編 『世界歴史大系 ロシア史2』 山川出版社、1994年
- 土肥恒之 『ロシア・ロマノフ朝の大地』 講談社〈興亡の世界史14〉、2007年3月。ISBN 978-4-06-280714-2。
外部リンク
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