ウィッテ内閣
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「セルゲイ・ウィッテ内閣」、「ロシア帝国国家基本法」、および「ドゥーマ」も参照 1905年10月、ウィッテは最初の内閣政府をまとめる任務を課され、彼は自由主義者たちにいくつかの腹案を提示した。農業大臣にイワン・シポフ(英語版)、通商産業大臣にアレクサンドル・グチコフ、司法大臣にアナトリー・コニ(英語版)、教育大臣にエフゲニー・ニコラエヴィチ・トルベツコイ(英語版)という組閣案であり、パーヴェル・ミリュコーフや公爵ゲオルギー・ルヴォフにも大臣職を用意した。 しかし、彼ら自由主義者はほとんどウィッテの政府に加わろうとしなかった。彼は「公衆の信頼を失ったツァーリ公認の官僚」によって構成される内閣を組織しなければならなかった。カデット(立憲民主党)は、皇帝が改革に強固に反対している事実を知り、十月詔書に示された約束を果たすことができるかどうかについて疑念をいだいた。 ウィッテは、ツァーリの政権はロシアを、市民的自由が保障された法治国家によって基礎づけられた、「個人的で公共的なイニシアティブ」が機能する「近代的産業社会」へと変革することによってのみ革命の脅威から救うことができると主張した。しかし、十月詔書公布後も反体制派はツァーリ政府に対し、いっそう多くの譲歩を求め、各地の少数民族は自治を、人口の過半を占める農民は土地を要求し、また、ロシアのほとんどの大都市では極右勢力によってユダヤ人などを標的とした集団的な迫害行為(ポグロム)が起こった。こういう状況のなかでウィッテは労働運動や農民運動、民族運動の鎮圧に強制力を用いたため、今度は改革勢力の側からも失望の声が上がったのであった。 1905年12月20日(露暦12月7日)から1906年1月1日(露暦1905年12月19日)まで続いたモスクワ十二月蜂起(ロシア語版)は、1905年革命の最後に位置する本格的な人民運動であった。蜂起側はモスクワ市街にバリケードを築いてパルチザン戦術を採用し、軍隊側と衝突を重ねた。しかし、市の中心部を軍に押さえられると労働者たちの多くは出身地の農村に帰り、他地区からの支援が途絶えて疲労と孤立のなか、蜂起側は敗北した。露暦12月16日、レオン・トロツキーと残りのサンクトペテルブルク・ソビエト(英語版)の幹部委員が逮捕された。1906年1月には大規模な懲罰隊が派遣された。1906年2月、農業大臣ニコライ・クトラー(英語版)が辞任したが、ウィッテはアレクサンドル・クリヴォシェイン(英語版)の任命を拒否した。 次の数週間、憲法草案に変更と追加が行われ、ツァーリが外交政策の独裁権をもち、陸海軍の最高司令官であることが確認された。ウィッテにとって、これは政治的敗北であった。大臣は、下院(ドゥーマ)ではなくニコライ2世に対してのみ責任を負うこととなった。「農民の問題」すなわち土地改革問題は大きな問題であったが、イワン・ゴレムイキンやドミトリー・トレポフの立場からは「怒れる公衆の集うドゥーマ」の権限は制限されなければならなかった。ボルシェヴィキもメンシェヴィキも来たる選挙をボイコットした。ウィッテは、ニコライ2世は自ら示した譲歩を尊重するつもりがないと見極めた。 危機を脱した専制政府では、内務省のピョートル・ドゥルノヴォやドミトリー・トレポフら秘密警察を握る反動路線が勢力を盛り返し、あくまで専制政治の維持を目論むニコライ2世もウィッテを忌み嫌った。ウィッテは政府部内の右派からは左寄りとみられ、新設されたドゥーマ(下院)でも信任が得られなかった。1906年5月5日(露暦4月22日)、トレボフ派の圧力の下、ウィッテはドゥルノヴォとは意見があわず、これでは国会を乗り切ることはできないとして、第一国会召集の前に辞職した。翌日、憲法(ロシア帝国国家基本法)が批准されたが、これは皇帝が専制君主であることを示した欽定憲法で、十月詔書に示された諸方針はほとんど無力化された。 選挙では、パーヴェル・ミリュコーフ率いるカデット(立憲民主党)が大勝し、さらに、カデットを離れたものやナロードニキ主義的な勤労知識人たちが中心となったトルドヴィキが票を伸ばした。彼らは身分的には農民であり、ツァーリ政府にとっては与党のきわめてとぼしい国会となった。皇帝ニコライ2世は、ウィッテの後継首相に保守派のイワン・ゴレムイキンを指名し、内務大臣には当時サラトフ県知事として強権をふるい、のちに首相となって改革をおこなうこととなるピョートル・ストルイピンが抜擢された。
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