ウィットビー教会会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 14:42 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ウィットビー教会会議(英語:Synod of Whitby)は、664年にイングランドで開かれたキリスト教の教会会議。
概要
イングランドのキリスト教は、当初アイルランドから伝わったケルト系キリスト教の影響が大きかった。アイルランドのキリスト教は、ローマのベネディクトゥス会則とは大きく離れていたほか、修道制を基礎としておりカトリックのような司教の管轄下におかれる教区が設けられていなかった。こうした様々な差異が、キリスト教の浸透とともに顕在化していき、両勢力の対立が強まっていた。こうした状況を収拾するため、664年、ノーサンブリア王のオズウィによってウィットビー教会会議が召集された。
イースト・サクソン司教チャドやリンディスファーン司教コルマンはケルト側で、ドーチェスター司教アギルベルフトやリポン司教ウィルフリッドはローマ側で論陣を張った。直接のテーマはイースターの期日算定をめぐるものであったが、両勢力のどちらが主導権を握るかという点で重要な意味をもった。結局、ローマ側の主張が通ったことで、ノーサンブリアにおいてローマ・カトリックが優位にたった。この後、徐々にローマ・カトリックがイングランド各地に影響力を拡大していった。
脚注
参考文献
- 青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史 1』 山川出版社、1991年。ISBN 4634460106
関連項目
ウィットビー教会会議
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「イングランド教会史」の記事における「ウィットビー教会会議」の解説
663年にノーサンブリア王オスウィがケルト教会の方式で復活日を祝っている時、カトリック方式に従っていた妻がまだ四旬節を守っていたために、復活日に関する問題が表面化した。これを解決するために両者はウィットビーで教会会議を開いて王の前で議論し、最終的に王はカトリックを支持した。664年、ウィットビー教会会議ではカトリック側が勝利した。以後イングランドの地域ではカトリック教会が優勢になった。 8世紀末のデーン人の侵入によって、イングランドの教会は再び停滞の時期を迎えたが、10世紀にはアルフレッド大王の下で復興がなされた。その後デーン人侵入の第二波がイングランドを襲うが、その王クヌートはキリスト教徒であり、キリスト教を厚く保護した。
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