ウィットラム政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「ウィットラム政権」の解説
ホイットラムは、メンジーズ時代とは大きく異なる政策を次々と打ち出した。内閣発足直後に中華人民共和国を国家として承認し、同時に東ドイツやポーランドとの国交も正常化して、社会主義諸国との関係を改善した。泥沼のベトナムからの完全撤兵が象徴するように、米国の世界戦略の批判もしたが、ANZUSを安全保障の基軸に据える方針は維持した。一方、反共的性格の濃厚なSEATOからは段階的に手を引いた。このように、ホイットラム政権の頃からオーストラリアは、大国でも小国でもない「ミドル・パワー」としての独自外交の模索を始めた。 この他、能力重視の移民選別を実施した結果、東南アジアを中心とするアジア系移民が拡大した。当初の意図に反する結果ではあったが、これによって政権は高い評価を得た。内政では、また、かねてよりアボリジナルが要求していた土地所有権を承認した(実務上の問題などにより、実施されたのはホイットラム退陣後の1977年)。「メディバンク (Medibank) 」と称する健康保険制度の創設や、大学授業料の無料化も行った。しかし、この高福祉政策は歳出の大幅な増加をもたらし、国家財政を圧迫した。石油危機の影響も相俟って物価や失業率は上昇し、野党勢力は緊縮財政への路線転換を主張して、与党が提出した予算案の審議を拒絶した。議会の混乱を見兼ねた連邦総督ジョン・カー (John Kerr) は1975年11月、憲法第64条を根拠に首相を解任し、野党自由党党首のフレイザーを暫定首相に任命した。予算法案は上院で可決されたものの、下院ではフレイザー首相の不信任が可決された。カー総督はフレイザー首相より両院不一致であり憲法第57条第1項の定める解散の要件に該当するとして議会解散の助言があったため、それにもとづいて議会を解散させた。 「もはや名誉職に過ぎない」とみられていた連邦総督が最高権力者としての実力を行使したこの事件は、その是非を巡る一大憲法論争に発展したが、ホイットラムは憲法に従い首相職を退いた。12月の総選挙の結果、自由党・国民地方党連合が労働党に大差を付けて上下両院を制し、フレイザーが政権を掌握した。
※この「ウィットラム政権」の解説は、「オーストラリアの歴史」の解説の一部です。
「ウィットラム政権」を含む「オーストラリアの歴史」の記事については、「オーストラリアの歴史」の概要を参照ください。
- ウィットラム政権のページへのリンク