ホイットラム政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 02:01 UTC 版)
「ゴフ・ホイットラム」の記事における「ホイットラム政権」の解説
1972年に23年間にわたる自由党による保守政権に替わり誕生した労働党政権はベトナム戦争への参加を終わらせ、革新政権として、ホイットラムが首相に就任した。 しかし予算審議が膠着し、国政が停滞すると、野党自由党の新党首マルコム・フレーザーは激しい政府攻撃を展開。上院での予算案通過を阻止することに成功した。 このような事態に至り、ジョン・カー連邦総督はホイットラム首相を罷免。これは憲法の規定に従ったものであるが、総督が従うべきと考えられていた憲法的慣習にそぐわない行為であったため、物議を醸した。ホイットラムはこれを受け入れ首相を辞任し、フレーザー選挙管理内閣に政権を委譲した。 なお、首相在任中の1973年に日本を訪問した際、日本とオーストラリアとの基本的枠組みを定める「奈良条約」締結を提案(NARA Treaty という通称には、Nippon-Australia Relations Agreement の意がある)。フレーザー内閣の手で1976年に締結された日豪友好協力基本条約として結実することになった。
※この「ホイットラム政権」の解説は、「ゴフ・ホイットラム」の解説の一部です。
「ホイットラム政権」を含む「ゴフ・ホイットラム」の記事については、「ゴフ・ホイットラム」の概要を参照ください。
- ホイットラム政権のページへのリンク