メンジーズ時代
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「オーストラリアの歴史」の記事における「メンジーズ時代」の解説
大戦後、オーストラリアは日本に進駐し、極東国際軍事裁判には裁判長を送って対日強硬論を展開した。しかし共産圏拡大の動きは、オーストラリアにとって新たな脅威となった。自由主義陣営は社会主義陣営と対立し、ここに冷戦構造が築かれたが、その盟主はイギリスではなく、成長著しいアメリカであった。 このような情勢にあって、1949年に地方党との連立政権を樹立したのが、再び政権に返り咲いたロバート・メンジーズであった。メンジーズは対米依存の強化による安全保障体制の確立に努め、同時にイギリスへの忠誠を示して伝統的保守層の離反を巧みに回避した。また、己の政敵となりうる党内の有力者には、名誉職を用意してその影響力を削いだ。こうしてメンジーズは、1966年まで16年余りに及ぶ長期政権を築いた。 社会主義体制が孕む諸問題を鋭く批判して有権者の支持を集めたメンジーズは、当選後も冷戦構造の確立を背景に、労働党や共産党を牽制した。また、英米を中心に共産主義脅威論が高まる中、オーストラリア共産党の非合法化を図ったが、これは1951年の国民投票の結果否決された。しかし、こうした過程で共産党は壊滅的な打撃を受け、野党第一党の労働党は分裂して弱体化した。さらに、この分裂劇の結果誕生した反共労働党(1957年、「民主労働党」に改称)が労働党を激しく攻撃するに及んで、メンジーズ政権はいよいよ磐石なものとなった。 経済面では、イギリスを始めとする欧州との取引が減少する中、日本やアメリカとの貿易を進展させた。国内には反日感情が強く残っていたが、「日本の左傾化を防止するために良好な経済環境を構築する必要がある」との観点から国内の説得工作を行い、1957年に日本との間に通商協定を締結した。1960年代からはウランやボーキサイトなど重金属の採掘が盛んになり、対日・対米輸出が急増した。こうした動きは、1966年の通貨単位変更(ポンドからオーストラリア・ドル(以下「豪ドル」)へ)に繋がり、対英依存の弱まりが次第に鮮明になっていった。 外交・軍事面では、1951年にサンフランシスコ講和条約を締結して日本との関係を修復する一方、アメリカ及びニュージーランドとの三国軍事同盟、即ち太平洋安全保障条約 (ANZUS) に調印し、日本の再軍備や共産勢力の膨張に備えた。一方、東南アジアへの共産主義の浸透防止を図るべく、「コロンボ・プラン (Colombo Plan) 」と呼ばれる経済・技術・教育援助を行い、また東南アジア条約機構 (SEATO) に原加盟国として参加した。ベトナム戦争に際しては、1965年に派兵を決定したが、死傷者の増加に伴い批判的な世論が広がった。 メンジーズは、1966年に首相を辞して政界を去った。自由党・地方党連合はメンジーズ退陣後も、ハロルド・ホルト (Harold Holt) 、ジョン・マッキュエン (John McEwen)、ジョン・ゴートン (John Gorton) 、ウィリアム・マクマホン (William McMahon) の4首相を輩出した。4名はメンジーズの強い影響下にあったため、メンジーズ政権発足からマクマーン政権崩壊までの約23年間を「メンジーズ時代」と呼ぶ。メンジーズ後の出来事としては、アボリジナルへの公民権付与、経済協力開発機構 (OECD) への加盟などが特筆される。 しかし、ホルトが在任中に不慮の死を遂げた頃から、与党間の歪みが次第に表面化した。国防相ジョン・マルコム・フレイザー(John Malcolm Fraser:のち首相)がベトナム政策での対立から離反したのを切っ掛けに、ゴートンは自由党から不信任を突き付けられた。地方党との関係にも綻びが生じ、混乱に陥った自由党は、1972年12月の総選挙でゴフ・ホイットラム率いる労働党に政権を明け渡した。
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