ナターリア・アレクセーエヴナとは? わかりやすく解説

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ナターリア・アレクセーエヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 13:12 UTC 版)

ナターリア・アレクセーエヴナ
Наталья Алексеевна
ロシア大公妃
聖エカテリーナ勲章英語版を佩用(1776年、ロスラン画)
在位 1773年 - 1776年

全名 ドイツ語名:ヴィルヘルミーネ・ルイーザ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Wilhelmine Luisa von Hessen-Darmstadt
出生 1755年6月25日
神聖ローマ帝国、プレンツラウ
死去 (1776-04-26) 1776年4月26日(20歳没)
ロシア帝国サンクトペテルブルク
配偶者 ロシア大公パーヴェル
家名 ヘッセン=ダルムシュタット家
父親 ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世
母親 ヘンリエッテ・カロリーネ
宗教 正教
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ナターリア・アレクセーエヴナロシア語: Наталья Алексеевна, 1755年6月25日 - 1776年4月26日)は、ロシア皇帝パーヴェル1世の最初の妃。ただし、パーヴェルが皇帝に即位する前に薨去したため、皇后にはならなかった。

生涯

生い立ち

ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世とその妃ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケンプファルツヴィッテルスバッハ家傍系出身)の第5子として、プレンツラウ(現在のブランデンブルク州の町)で生まれた。

ロシア大公妃

1773年10月10日、女帝エカチェリーナ2世の甥で、ツァレーヴィチであったパーヴェル大公と結婚した。結婚にあたっては正教に改宗し、ナターリア・アレクセーエヴナと改名した。

ナターリアは1776年4月にサンクトペテルブルクで第1子を死産し、自身も体調を崩して急逝した。

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