渡仏と帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 23:31 UTC 版)
1901年6月にはフランスへ渡りラファエル・コランに師事する。島崎藤村が刊行した『落梅集』の挿絵を担当。37歳の時にアカデミー・ジュリアンに転じ、ジャン=ポール・ローランスらから絵の指導を受け、39歳でジュリアン画塾のコンクールに入賞。また沼田一雅、岡精一とともにムードンへ赴き、オーギュスト・ロダンを訪問して署名入りのデッサンを貰う。同郷の荻原碌山がパリに留学するとその面倒を見た。 フランス留学から1905年に帰国後は、明治美術会の後身である太平洋画会に所属し、主に歴史画の分野で活躍して東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。1907年の時期の作品である「建国剏業」は東京府主催の「勧業博覧会」に出品され第1等を受賞したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちをすべて裸で描いたため、当時の文部大臣であった九鬼隆一は「不敬である」と激怒した。なおこの作品は関東大震災で焼失してしまった。
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