渡仏 - ボーヴォワールとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:00 UTC 版)
「アリス・シュヴァルツァー」の記事における「渡仏 - ボーヴォワールとの出会い」の解説
シュヴァルツァーは16歳で学業を終えてミュンヘンのシュヴァービングに移り住み、事務員の職を得たが、20歳のときにフランス語の勉強のために渡仏を決意。パリまでヒッチハイクで行き、オーペアをしながら学業に励んだ。「私のすべての行動の原動力は公正さである」と言う彼女はジャーナリストになる決意をし、仕事がもらえるようになるとモンパルナスにアパートを借りた。帰国後、デュッセルドルフに居を定めた後もフランスとドイツを行き来しながら記者活動を続け、とりわけ、ベトナム戦争に反対し、女性の地位向上を訴えた。ドイツの風刺雑誌の記者として採用されたが、早くも数か月後に退職し、再び渡仏。パリで女性解放運動 (MLF) が起こっていた1970年のことであった。シュヴァルツァーは女性解放運動に参加する一方、1968年の五月革命の精神を受け継いで設立されたヴァンセンヌ大学(現パリ第8大学)で社会学と心理学を学び、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン=ポール・サルトル、ダニエル・コーン=ベンディットほか当時活躍していた多くの左派知識人に出会った。とりわけ、ボーヴォワールとは以後親交を深め、1972年から82年までの間に行った対談を『ボーヴォワールは語る ― 『第二の性』その後』として出版した。
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