反ファシズム・共産党系の文芸誌『ユーロープ』
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「ジャン・カスー」の記事における「反ファシズム・共産党系の文芸誌『ユーロープ』」の解説
1936年4月、ルイ・アラゴン、ロマン・ロラン、ジャン=リシャール・ブロック(フランス語版)の推薦を受け、ジャン・ゲーノの後任として反ファシズム・共産党系の文芸誌『ユーロープ』誌の編集長に就任。時事欄を担当し、知識人にファシズムとの闘いを呼びかけた。スペイン共和派の熱心な支持者であった彼は、同年、アンドレ・マルロー、劇作家のアンリ=ルネ・ルノルマン(フランス語版)とともにスペイン知識人への支援を呼びかけ、1936年7月にフランコがクーデターを起こすと(スペイン内戦勃発)、渡西して数週間滞在し、第二共和政首相マヌエル・アサーニャほかスペインの友人に会い、帰国後、フランス政府にスペイン共和政への支援を訴えた。だが、ブルム人民戦線内閣はスペイン内戦への介入をめぐる内部対立を収拾することができなくなっていた。内戦介入を支持し、ミュンヘン協定(対独宥和政策)に反対するカスーは共産主義に傾倒したが、1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結を機に共産党と完全に縁を切り、ロマン・ロランの了解を得て『ユーロープ』誌の編集長を辞任した。 一方、1932年から歴史的記念物視察官を務めていたカスーは、1936年6月24日にジャン・ゼー(フランス語版)国民教育・美術大臣官房の美術問題担当に任命され、エコール・デ・ボザールの学長ジョルジュ・ユイスマンのもとで重要な役割を担い、特に美術品の買取に関する政策策定や文化予算の拡大に尽力した。1938年、リュクサンブール近代美術館(国立近代美術館の前身)の学芸員補佐に任命され、以後、近代美術コレクションの収集・整備に取り組んだ。第二次大戦が勃発すると、国立美術館の所蔵品を地方の古城に保管することになった。カスーは1940年2月に召集令状を受けたが、翌月、美術品をコンピエーニュ城に保管する任務に当たるよう命じられ、兵役を免除された。次いで(特にルーヴル美術館の所蔵品を疎開させた貢献によって知られる)ルーヴル校(フランス語版)学長のジャック・ジョジャール(フランス語版)の命によりパリ市学芸員に復帰し、元主任学芸員でエコール・デ・ボザール学長に就任したルイ・オートクール(フランス語版)の推薦によりリュクサンブール近代美術館の主任学芸員に任命された。ところが、ヴィシー政権はカスーが左派の政治活動をしていたことを理由に解任。以後、対独レジスタンス活動に専念した。
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