反ファシズム闘争と祖国解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 09:42 UTC 版)
「ユーゴスラビア共産主義者同盟」の記事における「反ファシズム闘争と祖国解放」の解説
アレクサンダル1世暗殺後、ユーゴスラビアではパヴレ・カラジョルジェヴィチによる摂政政治が続いていた。ユーゴスラビア政府はアレクサンダル1世死去後、親ドイツ政策をとり、1941年には日独伊三国同盟に加盟したが、国王ペータル2世の支持を受けた反ドイツ派がクーデターで新政府を樹立、中立を宣言した。その10日後、ヒトラー率いるナチス・ドイツの侵攻(ユーゴスラビア侵攻)に屈服し、国王ペータル2世と政府高官は亡命、ユーゴスラビア軍は枢軸国側に降伏した。 これによりクロアチアがクロアチア独立国としてドイツの傀儡国家となり、その他のユーゴスラビア領土もドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアといった枢軸国が分割占領した。 これらに対し、チトーなど共産主義者たちは国王支持派などを取り込んでヨーロッパ最大のパルチザン勢力を結成し、イギリスやアメリカの支援を得て祖国解放闘争を行った。連合国側ははじめ国王支持を表明していたが、1944年からはチトー率いるパルチザン勢力への支援に切り替えた。1945年、パルチザン勢力は自力でユーゴスラビアを解放することに成功した。これは他の東ヨーロッパ諸国と違い、ソ連軍の支援を受けずに達成されたものであることから、その後のユーゴスラビアとソ連の関係に大きく影響することとなる。
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