政治活動と流刑
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1929年にネロとカルロ・ロッセッリ兄弟が正義と自由 (Giustizia e Libertà)と呼ばれる反ファシズム運動団体を結成、両親と一緒にイタリアに移住したロシア系ユダヤ人レオーネ・ギンズブルグとともにイタリア支部の指導者に就任 (1932年)。 彼はフランチェスコ・メンツィオとともにジェシ・ボズウェル、ジジ・チェッサ、ニコラ・ガラント 、エンリコ・パウルッチといったすべてトリノの画家で構成される著名な組織グルッポ・デイ・セイに加わった。 反ファシズム運動に関与、活動の結果、レーヴィは逮捕され、1935年から1936年にかけて、ルカニア地方と呼ばれていたイタリアの僻地にある町アリアーノ (著書の中ではガリアーノとしている)へと流刑に処せられる。アリアーノでは、裕福なイタリア北部ではほとんど知る由もなかった貧困を目の当たりにする。医学部を卒業後に診療をしたことは一度もなかったけれども、村人を診察する医師の一人として働く。流刑中、絵画を描くことに多くの時間をさいている。解放後、フランスに移住、1939年から1941年まで住んでいる。1941年にイタリアに戻り、その後、フィレンツェで逮捕され、ムラテ刑務所に収監される。ベニート・ムッソリーニが拘束された後に解放され、ピッティ宮殿の向こう側の方で隠れ家を探す、そこで文芸書『キリストはエボリで止まった』を著した。 第二次世界大戦後、ローマに移り、共和主義の流れを受けついで生まれた反ファシズム組織パルティート・ディアツィオーネの出版物『L'Italia Libera』の編集者を1945年から1946年まで務める。ヨーロッパやアメリカ合衆国で出展、絵描き、執筆を続けた。『L'Orologio』 (時計) (1950年)、『Le parole sono pietre』 (石の言葉) (1955年)、『Il Futuro ha un Cuore Antico』 (未来には古代の心が宿る) (1956年)といった作品を創作する。1963年にイタリア共産党の公認候補者名簿に頼らずして上院に選出、1968年に上院で再選され、1972年まで務める。1975年1月4日にローマで肺炎により死去。アリアーノに埋葬されている。 パレルモで開催された「ペルシアナ」ギャラリーで最後の作品『アポロとダフネ』を出展し、やぎ革製の太鼓の演奏を披露したあと病院に入院した。
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