武装移民団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 13:27 UTC 版)
爆殺事件後、東宮は満蒙開拓移民の構想を抱き、しばしば上申した。この構想は満州を日本の生命線としていた関東軍首脳の興味を捕らえた。 1931年(昭和6年)12月に満州出張を命ぜられ、翌年4月関東軍司令部附を補職され、満州国軍政部顧問に就任、満州国軍吉林省警備軍軍事教官を務める。この時、拓務省、水戸市の農業訓練所長で農本主義者の加藤完治らと組んで、日本国内から満州への移民を推進した。 なお両者の目的には少しずれがあった。加藤らの目的は日本人による農本主義の実践にあったようだが、東宮の目的は国境付近に開拓団という独立した朝鮮人を主体とする共同体を定住させることで、非常時は防衛拠点・兵站として活用できること、国境付近の匪賊(馬賊)が周辺の一般民衆と結びつく事を抑制できることという2つの点をメリットとして移民(武装農業移民とも言われる)を推進するというものであった。 結局、東宮は、加藤の日本人主体の移民案を受け入れ、1932年(昭和7年)10月、在郷軍人会所属の独身男性からなる第一次武装移民団を結成する。第一次移民492人はこの年の秋に「佳木斯(ジャムス)」の弥栄村(いやさかむら)に移住した。佳木斯屯墾軍第一大隊と呼ばれる。翌年の7月には移民政策の一環として「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」を作詞し、「大陸花嫁」を募集した。 開拓地は、満鉄子会社の東亜勧業により、地元農民から半ば強制的に買収して移民団のために用意した。第一次武装移民団は、病気や精神疾患により大量に脱落し、また移民生活への不満から規律が大きく乱れ、移民団幹部排斥運動なども発生し、地元民からは、「匪賊よりも恐ろしい日本人移民」といわれるなど、多くの問題を抱えたため、以後、独身移民ではなく、家族移民の推進へと、方針を転換した。そして、数次の移民団の移住により、次第に安定化した。
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