ホロモイへの和人入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:32 UTC 版)
「神路 (中川町)」の記事における「ホロモイへの和人入植」の解説
当地への和人の定住は、1907年(明治40年)当時御料農地(中川御料地)の一部となっていた天塩川左岸のホロモイに1名の入植者が土地を借り受けたことに始まる。同年仮定県道天塩線(国道40号の原型)が当地に開通し、翌年にもう1名も土地を借り受け、ホロモイは従来の主要交通手段であった舟運と合わせ、安平志内(現:中川町安川)とモノマナイ(現:音威子府村物満内)を結ぶ陸運・舟運の中継地点となった。例えば1910年(明治43年)以降の現:中川町域への郵便物の一部は、咲来郵便局(現:音威子府村咲来)から誉平郵便局(現在の中川郵便局の前身)の双方を出た2人の逓送手が当地で落ちあい、双方の郵便物を交換して引き返す形態で逓送されるようになった。 その後、戸数は不明であるが段々と入植者が増加し、1913年(大正2年)に当地に渡船場ができ、1918年(大正7年)6月3日には入植者の増加を背景に、ホロモイ地区の高台に学校(公立ホロモイ特別教授所)が設置された。
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