満州天理村の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/13 17:46 UTC 版)
天理鉄道の連絡していた「天理村」は天理教信徒が入植した開拓地であった。元は清代の1806年に地元民による入植が行われ「永発屯」「福昌号」と称していたが、天理教の開拓団により新たに「天理村」が形成された。 中国での天理教信徒の活動は1905年頃から記録が見られるが、それから四半世紀ほどの間は宗教の布教活動という範囲に留まっていた。当時の天理教は地位が極めて不安定であり、神道事務局の傘下で神道の一派として扱われ、弾圧を何度も加えられていた。1908年に神道事務局から独立した後も散発的に弾圧が行われるなどしており、天理教全体が政府に強い反発を持っていた。 このことから国策である中国大陸進出にも批判的立場であったが、1931年頃に北海道・東北地方が大凶作となり、満州への開拓民入植が有効な経済政策と認識されるに至り、天理教内部からも満州への集団移住を行うべきとの意見が出されるようになった。また内務省からも天理教で国家的事業を行うことを提案されていたこともあり満州入植計画が具体化していった。 天理教の一機関である「天理教青年会」は1932年に入植地選定と購入を目的に役員を現地派遣、秋に哈爾浜市の郊外、松花江の支流・阿什河右岸地区を入植地と定めた。しかしこの地方は匪賊の活動が活発であり、独自の土地購入には危険が伴うとして、関東軍の依頼を受け土地買収を行っていた東亜勧業に依頼し、それらと共に買収作業を行うこととなった。 1934年1月16日、関東軍より開拓民の移民許可を受けた教団は、青年会員の中から信仰の篤い者を選び、移民団の結成を開始した。現地では5月26日に集落の起工式を行い、途中河川氾濫や匪賊の襲撃被害により工事が遅延しながらも完成、9月7日には上棟式を行った。「生琉里」(ふるさと)と命名された中央集落は中心部に教会を設置、その周りに村事務所・学校・診療所などの共用設備、さらにその左右に住居地を配置し小規模な城壁都市を形成していた。 ここに11月9日から入植が開始、翌1935年には入植者の増加によりもう一つ西側に「西生琉里」(にしふるさと)という集落を造成し、双方を合わせて「天理村」と称するようになった。 宗教団体による開拓村という特殊な性格に加え、当時の大消費地であった哈爾浜市近郊であり農産品の販売が好調であり順調に開拓が進められた。更に新規入植者に対しては希望に応じて1年後の出世払いでの融資を行うなど特異な制度は新聞でもたびたび取り上げられている。
※この「満州天理村の出現」の解説は、「天理鉄道」の解説の一部です。
「満州天理村の出現」を含む「天理鉄道」の記事については、「天理鉄道」の概要を参照ください。
- 満州天理村の出現のページへのリンク